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問答無用の莫妄想

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そうだ!

散歩をしていて、またヒラめいたとです。

散歩をすると、いろいろなことがヒラめくなあ。

 

あれだ、つまりようするに、ぼくはじぶんのアタマのなかで「問答」を繰り返しているのです。

 

 

きのう食べたものがきょうの体調に影響しているのだろうか、いや、または関係はないのだろうか。

ぼくの「あの行動」「あの生活習慣」が原因なのだろうか、いや、または全く別のことが原因なのだろうか。

ああでもない、こうでもない。

Aが正しいとすると、Bは間違っているのだろうか。

ぼくはXと認識しているが、ほんとうは、Yなのではないか。

・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・。

 

これを一般的には「考え過ぎ」という。

あるいは「悩んでいる」ともいう。

 

ちがう。

ちがうんだなあ。

 

ほんとうは、考えてもいないし、悩んですらいないのだ。

ただ「問答を繰り返している」にすぎないんだなあ!

 

なぜ、「妄想」「妄執」に取り憑かれるか。

それはまさに、「アタマのなかのセルフ問答」に起因しているのでした。

仮説を立て、問いを発し、それへの解を「創造」する。

解の創造 —— これこそが、まさに「妄想」なのでした。

解なんか、この10年間、ただの一度も生まれていないじゃないか!

生まれてきたのは、妄想ばかり。

それが、いまの現状だ。

 

 

問答無用。

 

この言葉は「いまは問答をする余地などない」というような、危急的緊急事態のことを指しているのではないのでしょう。

まさにそのまま、事実として、

「問答」は「無用」なのだなあ!

 

問答によって、「有用」なことがらなど、まずは生まれてはこないのですね。

もしかすると、この事実を身を以て直感するために、禅では「問答」を繰り返すのかもしれません。

この世において「問答などは無用の長物である」ということを、しっかりと知るために。

 

答えというのは、いつでも相対的だからでしょうか。

座標軸が変われば、定義がかわれば、かつての正解は一瞬にして誤謬に変化する。

きのうの正義が、きょうの罪悪になることもある。

 

問答はいらない。

問答がなくなれば、妄想も消えるのだ。

心配は妄想の一種。

心配は、あたまのなかの、問答だからなあ。

 

問答無用の莫妄想。

問答無用の莫妄想。

問答無用の莫妄想。

 

 

 

 

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