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緊張と引き分け

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そーいえば、ぼくはもともと「緊張しやすい性質(たち)」でした。

知らない人と話すだけでも異様に緊張するところが子供の頃からありました。

いわゆる「人見知り」というやつですかね。

 

そんな気弱なことではいかん、そう思って中学生になって「学園でいちばん怖い」柔道部に入ってみたのでした。

先輩も怖れば先生も怖く、同僚も怖く、学園生活はまさに怖いものだらけ。

なかでもいちばん怖かったのは、試合です。

 

試合なんてものは、人見知りの気弱な青年にとってはいちばんの鬼門です。

しらない街、しらない道場、しらない観客、しらない審判、とにかくしらないものだらけのなかで、「しらないやつ」とケンカしないといけないのです。

そして負けたら先輩や先生に殴られます、いやがおうでも緊張はいや増しに増していくのでありました。

 

そんな試合を何回も重ねていくうちに、ぼくはコツをつかんだ。

「勝とうと思うから、緊張するのだ」

 

引き分けでいこう。

ぼくはいまから、勝つために試合をするのではない。

「引き分けるために」試合するのだ。

ぼくじしんも、チームとしても。

そう考えると、とってもこころが落ち着くのでした。

 

とくに団体戦であれば「負ける」というのは、ものすげープレッシャーでもあるし、ある意味責任問題にもなりかねません。

「負けるかもしれない」

そう考えると、んもー、完全に、完璧にガッチガチになるのでした。

 

悩みに悩んだすえ、

「勝とうと思うこと」と「負けるかもしれないと思うこと」は、じつは同じだ。

ということに、ふと気がついた。

勝つ、負けるという水平線でウロつくのではなく「引き分ける」という「第二軸」に重心を置くことで、突如としてラクになることを発見したのでした。

 

それに気がついてからというもの、突如として柔道の腕が目をみはるほどに上達し・・・・・・

なんてことは、なかった。

全然なかった。

勝つ時は勝つし、負けるときは負ける。

このことには、一切干渉しないのでした。

「ものの考え方」程度で強くなれるほど、武道の世界は甘くなかったのです。

 

ただ、明らかに変わったことがありました。

「勝てる試合で負けることはなくなった」。

 

つまり、実力相応の結果を出せるようになったのでした。

つまりかんたんにいうと、「精神が、実力の邪魔をしなくなった」。

 

精神が実力を妨害するということは、とてもたくさん、あるのです。

その妨害要因のひとつが「緊張」ですね。

ぎゃくに、精神が実力を底上げすることは、あまりないのが残念ではあります。

いくら気合を入れたところで、初段の人間が三段の実力を行使することは、ありえないのです。

 

緊張がわるいのだから、緊張しなければよい。

まぁ、そりゃあ、そうなんだけれども・・・・・・「理論的にそうなんだから、そうすればよいのだ」というアルゴリズムだけで、ほんとうに「それができる」のならば、ぼくはすでに世界征服すらできていますね。

それができないから、面白いともいえる。

 

「緊張しないためには引き分けようとすることだ」という方法論。

ぼくには、これがいちばんシックリきました。

「勝とうとする」のでもなければ「わざと負けようとする」のでもない。

引き分ける、という方針。

 

よく考えたら、これはいろんなことに応用できるのではないのかな、と最近思います。

たとえば外出恐怖でオノノいているときに、「今日こそはあの場所まで行くのだ」なんて「勝とう」とすると、緊張がヒドくなる。

緊張するべからず、と言っているのに「達成しよう」という、いちばんアカンやつを持ち出してしまう。

んなもん、うまいこといくかボケ。

かといって「もー俺はダメなんだから、外出するの自体をやーめた!」ってなるのは「わざと負けに行っている」ことになる。

そうすると、ほんとうに「もーダメ」なままが、延々と延々とつづく。

 

 

「引き分ける」

 

これはいがいと、斬新なアルゴリズムかもしれません。

すくなくとも精神の安寧においては、目的を達成するということだけが唯一の道ではないのでしょう。

 

そういえばタモリさんが言った。

「夢があるようじゃ、人生終わりだよね」

 

夢を達成するために頑張るというのは、「勝とうとしている」ということと同義です。

それは不要な緊張を生むし、せっかくのぴかぴかした「今日のための今日」を、黒ずんだ「明日のための今日」に降格させるという意味合いもある。

つまり、勝とうとすると、夢を追い求めると、「今日が、いまが、無駄になる」。

 

勝つとか負けるとか、そんな低レベルのことでぐちゃぐちゃいうまえに、「いま」を生きよう。

禍福糾縄、いいことがあれば、わるいことがあるし、わるいことがあれば、よいことがある。

どちらにせよ、結局は引き分けになっていくのだしなあ、勝ち続けることを望むことは、いずれ負けつづけることを望むこととおなじ。

 

引き分けでいいんじゃないかな。

引き分けるっていうのは、じつはそんなにカンタンじゃないです。

すくなくとも「そこそこ強くないと」引き分けることはできないから。

 

引き分けようと思えば、「実力相応」の結果が待っている。

それでいいんですよね。

実力以上の結果も、実力以下の結果も、「ぼく本来の結果」ではないので。

じぶんに勝つ必要なんてない。

じぶんじしんと、引き分けよう。

 

 

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