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キリスト教と仏教の交差点、相撲のはなし

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きのう寝る前に読んだ本の一文がすごく印象的だったのでメモっておくのであります。

 

神の本質は『無』である。

神は人間の認識の範囲を超えた存在であり、一切を超えている。

したがって神はすべての中にあって同時にすべての外にある。

人間も無から引き出された被造物であるから、神と被造物の間に本質的な違いはなく、自らの内に神の本質の閃きを持っている。

そして、自らを空虚にすることによって、キリストのように神と一体となり、神との合一に至ることができる——

 

これはマイスター・エックハルトという、高名なドイツ中世キリスト教神学者のことば。

のちに、この「人と神との間に本質的な違いはない」という考え方がカトリック教会の反感を買い、死んだ後に異端扱いされたそうです。

彼が書いた本も焚書扱いにされ、隠し持っていただけでも極刑にされたらしい。

こういったあたり、中世のキリスト教会ってキチガイじみてて怖いよなあ。

誰かを悪魔扱いしてぶっ殺しまくるとか、お前こそが悪魔なんじゃないの、って思ってしまう。

ひとをバカにするひとこそがバカなように、ひとを異端視するひとこそが異端なのですよね。

現在でも、エックハルトはキリスト教者というよりは「神秘思想家」ということになってるそうです。

 

自らを空虚にすることによって、神との合一に至ることができる

 

これってさあ、完全にヨガじゃね?

ていうか仏教じゃね?

 

と思ったのでした。

とくに、

「存在の本質は無である」

これはもう完全に、仏教と言っていいのではないのかな、と思いました。

 

キリスト教と仏教というのは、本来的には考えかたがまったく違うというのに、このような「共通交点」がうまれることがあるようですね。

仏教とイスラム教にも共通交点があって、それはスーフィズムといわれる。

そしてその共通交点はメジャー側からは「異端」とされることが多い。

 

エックハルトは、こうも言うのです。

神が私に私の欲するものを与えんと欲するならば、私は神の御名においてそれを受け喜びに浸る。

しかし、神が欲し給わなければ、私はまさに欲し給わぬその神の御意思のままにそれをなしに済まし、

この『なしに済ます』ことと『受けない』こととを受け取るのである。

人は、本来的に神を『受ける』ことにおいてよりも、むしろ、『なしに済ます』ことにおいて受容するものである。

かくのごとくなすならば、一体私に何の不足があり得ようか。

いやだから、それはもう「親鸞」なのではありませんか。

 

道は違えども、ひたすら修行を直進していくと、最終的には同じようなゴールに到達するのでしょうか。

ぼくは個人的に、この「共通交点」にこそ、だいじなことがあるような気がします。

まったくの異系統別流派なのに同様の共通項が発生するというのは、「人間」という共通要素が生み出したことだと思うから。

教義という国境をまたいで存在するものは、真理にほど近いのではないのかなあ。

 

全然別件ですけど、この本を読んでいてぼくはなぜか「相撲」を思い出しましたよ。

キリスト教会のように、すでに成功を収め、体制側となり守る側となった「伝統」のなかに本質はなく、儀式と権益以外にさして大事なことは残っていない。

相撲がまさに、そうなんですよね。

相撲の本質は「神様への祈り」だったというのに、いまはもう「勝ち負け」「経営」だけに終始している。

スポーツも武道も基本をないがしろにすると大怪我をするから、いま相撲教会は大怪我をしているように思うのです。

「お金と名誉と形式と存続と勝ち負け」という、相撲の派生要素に過ぎなかったものを大将に据えてしまって肝心の「祈り」をすっ飛ばしてしまった。

土俵は聖域じゃなくてただのゴングになってしまい、お相撲取りさんは権禰宜ではなくただのアスリートになってしまった。

そのくせに、「スポーツあるいは格闘技としての進化」をしようともしない。

接ぎ木をしても、添え木をしても、もうあまり長くないんじゃないかな。

根っこが死んでるから。

 

 

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