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ヴィーガンと緯度

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ぼくが習っていたヨガの先生は女性で、ヴィーガンでした。

ヴィーガンとは菜食主義の一種で、肉はおろか、卵も乳製品も一切摂らないという主義のことです。

先生はまだ50代半ばだというのに、自転車で転んで大腿骨骨折をしました。

原因は、骨粗鬆症です。

 

ぼくがヨガから距離を置くようになったのは、このことがけっこうきっかけです。

ヨガのひとたちは、みんな口をそろえて言うのです。

肉食はだめだ、健康を害します。

健康だけでなく、精神や、魂までもダメにしてしまって、オーラを汚くする、と。

だから菜食にしなさい、と。

 

ぼくも一時期、それを信じていいたことがあります。

しかしまだ50代のピチピチ(?)の女性が、たかが自転車ですっ転んだ程度でフトモモの骨を骨粗鬆症で骨折するというのは、いくらなんでもおかしい。

食生活に起因するとしか思えません。

じぶんの体、じぶんの脳神経は、いったい何でできていると思いますか。

もちろん、食ったものでできているのです。

過度な菜食主義を貫けば、「そーゆー脳神経になる」。

食ったものは、その人の、体と心をまちがいなく形成していく。

人間は、動物は、そーゆーふーにできている。

 

そもそもの話、どうしてインドのひとたちが、ヴィーガンなのか。

このことについて、もう少し思慮深く考えてみるべきだと思うのです。

インド人がヴィーガンになったのには、ちゃんとした理由がある。

 

ぼくは学生時代に貧乏旅行で1ヶ月ほどインドに滞在していましたが、そのときに衝撃を受けました。

「インドは、日本ではない」

この、超絶的にとんでもなくあたりまえのことに、何回も何回も痛い目を見て気がつきました。

たとえば、こんなことです。

長距離バスのトイレ休憩で立ち寄った公園のようなところに、屋外のテーブルとベンチのセットがありました。

ほとんど黒に近いオーク色をした、シックな年季の入ったものでした。

さすがインド、テーブルとベンチでさえ、風格があるなあ。

出発までだいぶ時間はあるし、天気も良いので、しばらくここで休憩することにしよう。

さて、ではよっこいしょ、と腰をおろした瞬間……!

 

ブワアアアアア、突如「真っ黒な雲」にぼくは包まれたのです。

「なんだ! なにが起こった!?」

びっくりして飛び上がったところ……その雲はすべて「蝿」でした。

無量多数の蝿の雲に、ぼくは包まれていたのです。

なんだ!? この蝿たちは、いったいどこからきたのか? なぜ突然に!?

 

ふと見下ろすと、さっきまで座っていた「黒に近いオーク色をした年季ものテーブル」は、「真っ白なプラスチックのテーブル」に変わっていました。

まるで、手品のように!

そうなのです。

もちろん、手品なんかではありません。

ただ、真っ白なテーブルに、隙間のないほど蝿がたかっていただけのです。

ぼくが座ったことで蝿たちが驚き、全員が飛び上がっただけなのでした。

旅行客がジュースやご飯をこのテーブルにこぼしていったのでしょう。

テーブルの白い部分が見えなくなるほどに、蝿がみっしりと蝟集していたのです。

 

インドは、暑い。

うそみたいに暑い。

とくにヴィーガンの多い地域ほど暑く、湿度が高い。

虫もバイキンも、日本では想像がつかないぐらい、大量に発生します。

真っ白なテーブルを、真っ黒に変えてしまうぐらいに。

地獄だ。

 

なぜ、ヴィーガンになったのか。

ぼくはインドという環境こそに、そのヒントがあると思うのです。

日本でも、夏には食中毒が起こることがよくあります。

湿度高く、気温は40度を昼夜なく年中通じて続くようなインドにおいて、食中毒の恐怖はいかほどのものだったでしょうか。

あれほどの大量の蝿が蝟集する地域において、肉を食うことの意味は、どうだったでしょうか。

冷蔵庫もクーラーも、氷さえもない、常軌を逸するほどの高温体多湿の地域において、動物性蛋白質が腐敗したものを、食う。

それは純粋に「死」を意味することも、あったのではないでしょうか。

 

ある地域に済むインド人たちは、べつに宗教的あるいはスピリチュアル的な意味でヴィーガンになったのではないと思うのです。

肉を食うと死ぬ可能性がある。

ただ、それだけの理由で、食わなかったのだと思うのです。

そして、もうひとつ。

あれだけの過酷な環境で育った野菜たちと、日本のような清涼な地域のビニール・ハウスで育った野菜たちを、同じものとしてはならない。

格好やライフスタイルだけ真似て、日本の野菜ばかり食うというのは、はっきり言って完全に世界をナメていると思う。

インド人たちの生命力が強いように、インドの野菜たちの生命力も、強い。

あんなに過酷な環境でも、生き抜いてきた野菜たちなんだ。

同じ大豆でも、きっと組成が違うはず。

「菜食は精神を清浄にする、健康になる」

そんな甘っちょろい、理屈っぽい、妄想のようなイデオロギーで菜食をして、どうして効果があると思えるでしょうか。

なにもかもがちがうというのに。

あいつらは、あの野菜たちは、日本の野菜なら2日で死んでしまうような環境でも、青々としぶとく生き抜くような、頑丈な野菜たち。

肉を食わなくても大丈夫だった理由は、ここにもあると思う。

下品なぐらいに強い野菜たちを食っていたから、大丈夫たったんじゃないか。

 

つまり単純に、こういうことです。

「日本ではヴィーガンを行うべきではない」

 

何を食うか、のまえに、なにが食えるか、をまず考えるべきだ。

ぼくたち日本人は概ね、北緯40度から30度あたりで生きている。

「その緯度で生育する動植物を食う」

これが、この、あたりまえのことが、まず基本姿勢だと思うのです。

これをもっとミクロに追求すれば「地産地消」になる。

その土地で、生きているものたちを食え。

それらをぜんぶ、好き嫌いせず、なんでも食え、ぜんぶ食え。

食えるものなら、なんでも食え。

菜食だの、ヴィーガンだの、ヴェジタリアンだの、ラクトヴェジタリアンだの、ペスコヴェジタリアンだの、いくらグズグズ言ったって、それは結局「変形好き嫌い」をしているだけだけに過ぎない。

あたまを使った、イデオロギーを用いた、好き嫌いだ。

 

動物性蛋白質が腐りやすい高温多湿の地域では、日照が強く、野菜が下品なくらいに強くなる。

いっぽう、日照が弱く野菜がそれほど強くなれない地域では、涼しいので肉や魚が元気で、わりと腐りにくい。

こんなにステキな、神様がくれた絶妙なバランスを、どーしてわざわざ浅はかなイデオロギーなんかで意図的に逸脱しなくてはならないのだろうか。

その土地に生きているものなんでも食えば、それでだいたい、だいじょうぶ。

せっかくそーゆーふーに、できていたのに。

 

ぼくは今日、ヨガ関係、スピリチュアル関係、健康関係、宗教関係の本を、全部捨てた。

ヨガに正解があるのではない。

正解はめのまえにあるのだから、本なんかいらないのだ。

むしろ、そういった本こそが、人を正解から遠ざける。

エロ本のほうが、罪がないよね。

 

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