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本を捨てれば

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そもそも「模様替え好き」のぼくなのですが、今回はちょっと違いました。

気分転換に家具の配置を変えてみる、というのではなく、「掃除がしたい!」という欲求のほうが強いのでした。

そして実際に模様替えをしつつ床を雑巾で拭いたりしているうちに、突如として

「本を捨てよう!」

と思ったのでした。

 

じつはいぜん、すでに100冊ほど本を処分しています。

それでもまだ本棚にはもう100冊ほど本があります。

そう、ぼくは本好きなのです。

1回目の処分時には、ずいぶん古い文学作品や漫画、雑誌などを破棄しました。

残したのは、ヨガや宗教・哲学関係(特定の宗教という意味ではなく、宗教に関するいろいろな本という意味)、スピリチュアル系、健康関係の本などです。

それだけでも100冊を超えているのですから、どれだけヨガなどに傾注していたかがわかりますよね。

 

そんなにたくさんのヨガスピ健康系の本が増えた原因は、パニック障害や外出恐怖が原因の一つであったことは間違いがありません。

医者さえも助けてくれない、このつらい症状について「知識」に頼ることで、多少でも解消できるのではないかという期待があったのです。

ある意味で、とてもいじましいといえるでしょう。

 

しかしながら、そのうちウスウス気がついてきました。

「知識は、ぼくを救ってはくれない。」

いくら本を読んだって、いくらネットを徘徊して医学関係の情報を集めたところで、なにひとつ改善しないのです。

それを10年以上続けても、です。

 

なぜか?

それはじつは、とても単純なことだったのかもしれません。

10年間、まるで学者の真似事でもしているかのように大量の本や情報を漁っても、ちっとも治らなかった。

それは「知識には、チカラがない」というような、優しげなことではなく。

残念ながら、

知識こそが、ぼくの不調の原因だった

ということなのだと思います。

犯人は、知識そのものだったのです。

 

知識に頼るということ。

情報に依存するということ。

なんのことはない、これこそがりっぱな「症状」だったのです。

2回の処分で消えていった200冊の本たち。

このなかには、決定的にぼくを救ってくれた情報はなにひとつありませんでした。

せいぜい「いい暇つぶしになった」程度。

知識や情報というものは、じつは所詮、そんなものなのです。

いいところが、ただの暇つぶし。

そんなものを「頼る」ということで、かえって精神の不安を助長していたのだと思います。

 

情報よりも、知識よりも、大切なもの。

それは「人」と「からだ」なのだと思います。

本を大切にするよりも、身の回りの人を大切にする。

知識の獲得を大切にするよりも、しっかりからだを動かしたり、しっかり休んだりして、じぶんのからだの血の巡りを大切にする。

救ってくれるのはいつでも、知識ではなく人とからだだからです。

 

どうもアタマに血が登り、のぼせて、気分がわるくなる。

それは眼精疲労がどうのこうのということだけではなく「知識偏重」の症状だったのだと思います。

アタマ重視、知識重視のバランスを欠いた行動原理が、そのままアタマに症状として現れていた。

 

都合200冊の本を処分すると「アタマがスッキリする」。

気のせいかもしれませんが、確実にそう感じます。

なんだかアタマが軽くなったようで、細かいことをグズグズ考えなくてもいいように思えます。

アタマが軽くなると、こころも軽くなる。

本を捨てるという行動は、「知識に頼るこころ」そのものを捨てることにつながっていたのだと思います。

 

書を捨てよ、街に出よう。

 

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