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跳ね返すちから

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運動を定期的にするようになると「押し返すちから」が強くなります。

なんかコワイなあ、なんか不安だなあ、なんか不吉だなあ、なんかイヤだなあ。

そんな「なんかネガティブ」を、筋力の増加にともなって、押し返すことができるようになる。

 

思うに、ぼくは長年病気病気(パニックとか、ウツとか、外出恐怖とか)言ってきたけど、病気ではなかったのではいか。

病気とかではなくて「とても体力が落ちていた」だけなのではないか、と思うことがあります。

またそう思うのは、必ず「鍛えている」ときです。

つまり「私は病気である・異常である」という観念さえ「押し返す」ことができるようになる。

 

この「押し返す」が、さらに発展したとき、これは「跳ね返す」になっていく。

押し返す、というのは、「いったん受け入れている」というのがあります。

投げられたボールを一回キャッチして、それを投げ返す、というような。

不安や恐怖という感覚を「いったん感受」している。

そして、その受け止めたものを、よいしょっ、とグっと押し返す。

これがもうすこし発展すると、恐怖や不安というものが「感知されるまえに」消えている。

つまり、跳ね飛ばしている。

 

ぼくは外出恐怖で、スーパーで買い物など、一切できませんでした。

しかし最近は、ふつーに行けるのです。

行って、こともあろうか(これはほんとうに「こともあろうか」なのですが)、商品を手にとって「ううむ。これは買うべきか買うべからざるべきか。しっかり説明箇所を読んで、吟味検討しよう」などと、一生懸命商品の裏書きなどを読んでいたりする。

そしてレジの人に「カード使えますかね」なんて、フレンドリーに話しかけたりする。

まあ、ふつうですわなあ。

 

以前は、じつはこんなもん、もってのほかだったのです。

「商品を吟味検討」なんて到底無理で、購入する商品はあらかじめ決定しておくのは当然、恐怖におののきながらスーパーに向かい、意を決し、ほぼ「決死の突入」というような心持ちでスーパーに「乗り込み」、目を皿のようにして商品を捜索し、やっと発見した商品は奪取するようにして取り上げ、走るようにレジに向かい、レジでモタモタしているババア客どもにキレながら、その間に消費税まで計算し、1円たりとも齟齬のないようお金を用意しておき、やっと回ってきた順番ではレジのババア店員のキーを押す遅さにイライラしながら、速攻で支払いを終えるとレシートも受け取らずにダッシュして、逃げるようにスーパーを出る。

これは何かと言うと「こわい」からです。

スーパーがコワイのです。

べつにババアどもに何らかの恨みがあるわけではなくて、スーパーという場所が怖くて怖くてしょうがないから、そうなってしまう。

 

これを医学的には「広場恐怖症」という。

これを改善するには、なかなか一筋縄ではいきません。

何が原因だったのか、どういうストーリーでそうなったのか。

そーゆーことを、しっかり検討していく必要があります。

 

さて、とはいうものの「コワイ原因はなにか」と検討し、その原因を取り除いていくよりも、もっと良い方法があったようなのです。

それは「恐怖を跳ね返す」ということ。

恐怖の原因を神経質に探し、それを神経質に排除し、自己の内面にある諸問題を解決する、というのは結局、もう無理だ。

うんざりだ。

だって、起きてしまったことは、もう、どうしようもないのですもの。

経験してしまったことは、もう変えられないのですもの。

記憶だって、結局消えはしないのです。

だから「跳ね飛ばしてしまえば」、もう、なにも問題はないはずなのです。

 

「それができれば、だれも苦労なんかしないよ」

ぼくも、そう思ってた。

でもそれは、そんなにいうほど、難しいことではなかったのかもしれません。

「恐怖に、負けている」

ただ、それだけだったのかもしれないのですから。

 

なぜ、人は、恐怖に負けるのか。

それは「気力が低下しているから」だったのかもしれない。

そして、では、どうして気力が低下するのか。

それは端的に「体力が低下していたから」だったのかもしれない。

 

もちろん、人ぞれぞれ原因もメカニズムもちがいます。

だから一概に、体力だけが原因だった、というつもりもありません。

ですが「体力が要因の多くを占めている」ということは、じゅうぶんにありうると思う。

すくなくとも、ぼくのばあいは、そうだったようです。

体力がつけば、気力のほうも数学的に正比例して、パワーアップしていく。

怖かったものが、怖くなくなる。

純粋に、下半身の筋力と呼吸力の上昇によって、恐怖は消えていくのです。

恐怖の「原因」は、なにひとつ消えていないのです。

環境も、なにひとつ変わってはいないのです。

記憶だって失っていません、あの恐怖は、ぼくは一生忘れられない。

しかしぼくの体力が変わった、この変化だけで、驚くような変化があった。

 

ものごとには「環境要因」と「自己要因」がある。

これをまず、整理しなくてはいけない。

そしてこの整理をつける習慣をつけるのが「掃除・整頓」なのだと思います。

環境に強く依存した不具合の場合は、環境を変更することによって、改善します。

しかし不具合の原因が自己に依存していた場合は、環境をいくら変えても、一切変化はありません。

仕事を変えようが、ライフスタイルを変えようが、学校を変えようが、家を変えようが、部屋を変えようが、食事を変えようが、健康法を試そうが、なにも変わらない。

原因が「わたし」にあったのだから。

ぼくのばあいは「体力低下」が、原因の多くを占めていたのかもしれません。

体力低下は自己要因の、最たるものですからね。

 

シャア少佐じゃないけれど、恐怖は感じなければ、どうということはない。

恐怖は「感じる」ことによってはじめて、その威力が行使されるから。

感じないためには、なにも「麻痺」「逃避」「解釈のすり替え」だけが、その方法ではない。

「跳ね返す」のもまた、りっぱな方法。

そして跳ね返すためには、最低限の体力が必要。

最低限の体力を身につけるためには、そう、「とりあえず動け」なのですよね。

からだを、動かせ、一日一回、音をあげろ。

体力と気力には、無視できない因果関係がある。

とくに「心肺機能」「足腰の筋力の強さ」に、体力はその多くを依存している。

 

だからもう、ややこしい健康法なんか、どうだっていいんだ。

骨格をいじくり回す前に、へんなものを食う前に、とにかく、歩こう、走ろう、足腰をイジメよう。

悩みの多い人ほど、理屈っぽいひとほど、まずは筋力を高めよう。

そうすれば「いままでになかった変化」を、きっと感じられるはずです。

 

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