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楽なことには、落とし穴がある。

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最近頻繁に掃除(掃除機を使うのではなく、床に這いつくばってゾーキンがけをするとか、箒で掃くとか)をするようになって、気がついたことがあります。

「楽なことには、落とし穴がある。」

もっというと、便利なことには、落とし穴がある。

 

コトワザでも「苦中楽あり、楽中苦あり」といいます。

ぼくはこのことを、以下のように解釈をしていました。

「苦労をすると楽になり、楽ばかりすると苦労が増える」

まあ当たらずとも遠からず、と言えないこともないのでしょうが、しかしそうならば、字が違うはず。

苦と楽が、暫時的に交互に出現するという意味ならば、このコトワザは「苦のあとには楽があり、楽のあとには苦がある」というふうな言葉になるはずです。

でもそうではなく、あえて「中」という字を使っている。

つまり「苦」と「楽」は、必ずしもそれぞれひとつの独立したカタマリとして別個に存在しているわけではなく、「苦」は「楽」をすでに包含しており、また「楽」も「苦」をすでに包含している、ということになります。

ということはつまり、苦と楽は、もはや別個のものではないともいえます。

苦と楽は、本質的には同一のものである。

まるで、蓮の花のようですよね。

ドロッドロの、きったない「苦(沼)」から、天国的な「楽(花)」が出てくる。

しかし「楽(花)」は、「苦(沼)」がなければ、死んでしまう。

だから花と沼は本質的には一体の生命である、というような。

 

たとえば自動車なんかは、とても便利です。

「楽」の代表格ともいえるでしょう。

しかしこの「楽」な自動車は、ひとたび事故を起こしてしまうと大怪我をしたり、場合によっては死人が出る場合もあります。

いっぽう歩くことや走ることは「苦」にほど近いですが、転んだとしてもそんなに大きな事故にはならないことが、ほとんどです。

自転車も自動車に比べれば事故の度合いは少ないものの、そのぶん、上り坂は「苦」だらけです。

 

ぼくは在宅の個人事業主です。

なので、出勤の必要はなく、朝起きたら数歩で仕事場に行けます。

これはものすごく「楽」です。

しかし、これをずっと続けていくと、非常に体調が悪くなります。

そこで定期的に歩いたり走ったり、なんらかの「苦」を与えると、体調がマシになっていきます。

なお、デスクワークを続けていると、かなり寿命が縮むといいます。

座るというのは楽な姿勢なはずのに、こればかり続けていると、血管だの神経だのがダメになって、病気になってしまう。

 

「楽をするために、苦労をする」

そういう思想で、若いうちにいっしょうけんめい働いて、楽な老後をめざすという人も多い。

念願かなって豊富な退職金を手に定年退職をしたあとはいっさい働きもせず、外出は車ばかりを使い、家事は嫁に任せっきりで始終座ったままだという人は、心臓や脳の病気、成人病などになりやすい。

いっぽう定年後も仕事を続けていたり、買い物も原則徒歩で行き、男性でもこまめに家事をこなす人のほうが、結果的に健康寿命が長かったりする。

これは、我が家の両親がよい見本です。

車を持ち、交通至便のマンションにいたころは入退院を繰り返していましたが、やや不便な郊外に引っ越し車まで手放したところ、両親は強健になっていきました。

一日に一回「遠いスーパーまで歩く」ということを続けた結果、大きな病気は消えてしまったのです。

「楽」を手放したほうが、かえって楽が増えたようにも見えます。

 

「楽」が大きくなればなるほど「苦」の大きさも、正比例して大きくなる。

まさに苦と楽は別個のものではなく、同一の概念の側面にすぎないのかもしれませんね。

 

そういう視点で考えると、スマホに代表されるようなIT関係の発展というのは、必ずしも喜ばしいことではないのかもしれません。

「この世の中をより良いものにする」

ITがらみの企業は、こぞってこういう甘言を述べます。

楽なことはいいことだ、便利なことは、善なのだ、と。

 

しかし実際には、情報が増え、情報交換が気軽になってしまったことで、幸福度は圧倒的に下がっているように思います。

たとえば最近は「スマホをいじりながら映画を見る」というようなことをする人が増えているそうです。

そんなことをすると集中力が散漫になり、感性が大幅に低下してしまいますから、同じ映画を見たとしても感動の量が違ってきます。

映画というものは大概の場合「しっかり集中して」観れば、だいたい面白いものです(もちろん、中には例外はありますが)。

しかしスマホのツイッターなんかを横目でチラ見しながら鑑賞すると、重要な伏線を見逃したりして、面白いと思えなかったりします。

しまいには「クソ映画だな」とか言い出す。

つまり、本来もっと強烈に受け取れたであろう感動を、スマホ中毒になることでみすみす放棄してしまっている。

そして最終的に「最近は面白いことが全くない」などと、ほとんど言いがかりともいえる愚痴を言い出すことになっていきます。

子供のころ、どうしてあんなに毎日が楽しかったのか。

それは「集中していた」からなのです。

あちこちに、精神を分散していなかったからなのです。

「ながら」動作は、幸福度を著しく低下させる。

 

「楽をする」

ということを、ちょっと分不相応に持ち上げてしまうから、おかしなことになったのかもしれないな、と最近思います。

苦しいこと、しんどいこと、めんどうくさいこと……。

これらはじつは「ぜったいに、消去も、削減もできないこと」として、再認識したほうが良いのかもしれません。

工夫をすれば、イノベーションをすれば、「苦」は減らすことができる—。

この短絡的で幼稚な発想が、かえって苦しみを生み出しているように思えてならないのです。

工夫を重ね、便利にしても、苦しみは減りもしないし、消えもしない。

ただ「裏にぐるっと回転した」だけ。

いずれまた、ぐるんと回転して、戻ってくる。

それも、前よりも大きく成長して、前とちがう顔をして。

 

だったら。

「苦に積極的になる」

ということのほうが、バランスが良いのかもしれませんよね。

「めんどくさいから、やろう」

みたいな感じで。

だって、どうせ「苦」は絶対に消えたりはしませんし、「苦」は必ず「楽」とセットになっているから。

苦を求めるということは、楽を求めているのと、ほぼ同義。

めんどうなことを避け、「集約された楽」に逃げ込んだら、あとからぎっしり圧縮された「濃厚な苦」に襲われる。

そんなしちめんどうくさいことを繰り返すぐらいなら、「ちょっと面倒なことを、積極的にやる」ほうが、マシだ。

 

ていうか、そもそもの話「運動」じたいが、相当めんどうくさいことなんですよね。

このめんどうくさいことをどれだけ継続したか、によって、将来の健康度は変化する。

ダラダラ、ゴロゴロ、ノンビリ、ゆったり一辺倒では、絶対に元気になれませんからね。

 

めんどくさいから、やろう。

しんどいから、やろう。

いやだから、少しやってみよう。

結局そのほうが、毎日が「楽」になる。

工夫なんか、イノベーションなんか、クソくらえじゃ。

そういうのは「一時的な楽」しか生み出してはくれない。

 

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