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トイレ掃除が良い理由

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掃除は祈りであり、愛撫である。

そういえば、ソージ・アイヴというひとが、スコットランドあたりにいたような気が、するような、しないような。

いないかな?

 

いないだろうけど、そんなことはさておき、よくよく考えてみたら(そんなに考えてはいないのだけれども)掃除は祈りであり、愛撫である、と思うのです。

掃除機でブワーではなく、ゾーキンで拭きまわるほうね。

 

掃除をするときに、たとえばそれが床だったとして、

「お前死ね。もっと汚れろ。くたばれ」

などと思いながらするひとはいない。

キレイになってほしい、ぴかぴかになってほしい、うつくしくなってほしい、心地よくなってほしい。

そう願いながら、掃除をします。

これはなんのことはない、「祈り」です。

そして「昨日拭いた床」を、「きょうもまた拭く」。

そうするとですね、こう思うのです。

「おまえ、キレイになったなあ」

しかし数日サボって、久しぶりに拭く。

「おわ、けっこう汚れたな」

申し訳ない。

ごめんな。

へんな話だけれども、そんなふうに思う。

 

人間というものには、おそらく本能として「手で触れたものを愛する」という機能があるのだと思います。

床や、壁や、家具や、そいういったものでさえ「撫でると愛してしまう」。

ペットなんかはわかりやすい例で、よしよし、よしよしと撫でれば撫でるほど、可愛くなる。

じぶんの子供でもそうで、あたまやほっぺたなどを、手で触れれば触れるほど愛着がわく。

「愛の機能」の一環として、そーゆーのがあるのだと思います。

 

拭き掃除というのは、もう「撫でている」としか、いいようがありません。

掃除機でブワー、ホウキでサササでも、ある程度は「愛の機能」は働くのですが、「拭く」というのは、かなり直接的です。

これはもう、愛撫だ。

つまり要するに、壁とか床が、そのうち「可愛くなってくる」のです。

可愛いから撫でる、という方向があるいっぽうで、撫でているうちに可愛くなる、という方向もある。

 

そこで、トイレなのです。

 

トイレ掃除はいい、とよく言います。

では、なにがいいのか?

この回答として、ぼくは「愛の機能」を提示したい。

 

排泄物というのは、心理的には「じぶんから出ていったもの」を象徴します。

じぶんがしたウンコだけは、絶対に誰にも見られたくない!

そう思うひとは、じぶんの行動に自信がありません。

じぶんの行動 = じぶんから出ていったもの = 排泄物、という等式ですね。

この「行動」には、「ことば」「態度」「仕事」も、含まれます。

 

ウンコをするところ = トイレ。

トイレを見られるということは、ウンコを見られるのと、わりと近い位相にある。

ウンコそのものを見られるのはアレだとしても、ウンコと位相がほど近い「トイレ」が、「誰に恥じ入ることなく美しい」状態であれば、どうでしょうか。

「ウンコを見られてもかまわない」

という意識と、かなり位相が近寄るかもしれません。

 

便器を、磨く。

これは「排泄物を愛する」というのと、位相が近いかのもしれないのです。

とはいっても、なにもスカトロ趣味ということではありません。

毎日排泄物で汚す便器を、毎日磨いている = 愛撫している。

すると、なんとんなくではあるけれども、「排泄物を許せる」気持ちになっていくのですよね。

汚いのは、汚いです。

でも「便器にキスができるぐらい」キレイにすると、なんというか「ウンコは汚くない」というような、これはちょっと混濁しているのかもしれませんが、それにほど近い感覚になります。

 

じぶんのウンコを、許せる。

ということは「じぶんの言動を許せる」ということにも、つながるのかもしれませんよね。

じぶんがした仕事にも、自信が持てるような気がしてくる。

人がどこで自信を失うかと言うと、じつは自分の存在そのものというよりは「じぶんから出ていったもの」によるところが大きいです。

じぶんのことばや、行動や、態度や、仕事や、結果など。

そういった「出ていったもの」を「許せない」ことによって、ひとは自信を失い、罪悪感を抱くことは多い。

じぶんをゆるすというのは「じぶんのウンコを許す」というのと、もちろんまったく同一ではないとしても、かなり近い位相にあると考えられます。

 

だから、トイレをピッカピカにすると、すこし自信が持てたりするのです。

「便器を手で撫で回す(もちろん、ゾーキンを介してだけど)」ことで、「排泄物を愛する」までは行けなかったとしても、すくなくとも「ゆるす」までは行ける。

ウンコを許せたということは、じぶんを許せたのと同じ。

ウンコを愛せたということは、じぶんを愛せたのと同じ(ちがうか)。

じぶんから出ていった、最も汚れた、忌まわしいものを、許すことに、とても近いところまで来た。

すくなくとも「その場」は、愛することができた。

 

掃除は、祈りであり、愛撫である。

家の汚れ、というものじたいが「自分から出ていったもの」。

イエス・キリストも言いました。

「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

トイレをピカピカにしていたら、自分から出ていったものも「そんなにいうほど、汚くはないかナ」ぐらいには思えるようになる。

 

じぶんから出てきたものを、愛す。

じぶんが生んだものを、愛す。

それができるか、できないかで、人生は大幅に変わると思うのです。

トレイ掃除は、そのためのトレーニングだと思う。

それも、とても合理的な。

 

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