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神経質というエネルギーの、矛先を変えてみる

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神経質であることが、わるいのではない。

「神経質の矛先がヘン」であることがわるい。

……ということに、ふと気がついたのでした。

 

そもそもの話、人間は全員神経質なんだそうです。

「人間は神経質なサルである」という説もあります。

「人間は『神経質なサル』が進化したものです。環境の変化などにたいして、最も異常に敏感に反応する種が生き残ったのです」

(「Googleのマインドフルネス革命」より)

たしかにそうだ。

人間が全員、「もー、なんでもえーねん。ちょっとぐらい歪んどってもえーねん。ちーとぐらい間違っててもえーねん。もー、どっちゃでもええねん」という人ばかりなら、こんなに精密な街になっただろうか。

世の中に「機械」や「テクノロジー」「法律」「芸術」が、生まれただろうか。

頭が良いというだけでなく、非常に神経質だからこそ、人間は社会というものを形成することができます。

 

一見神経質ではなく、鷹揚で大物感のある人は、確かにいます。

しかしじつはそんな人でも、ある事については非常に神経質だったります。

たとえば仕事、趣味などに。

ぼくの知り合いですが、掃除もしないし不潔だし、時間にもいい加減で、しょっちゅうなくしものをし、人間関係にもあまり気を使わない人がいます。

しかしそんな人が、じつはコーディング(プログラムを書く作業)には、病的に神経質で、異様なこだわりを持っていたりします。

人を表面的にサワっと撫でて見ているだけでは、その人の「根に持つ神経質さ」を見ることはできません。

だから「彼は鷹揚だ、うらやましい」などと言うのですね。

 

いえいえ、人間は全員、神経質。

その対象が、ひとそれぞれ違うだけだ。

もしそうならば「神経質であることを悩む」というのは、じつはその性質自体を悩んでいるというよりは、その「払い出し先」に悩んでいるだけなのだと思うのです。

たとえば、ぼくはおそらく「じぶんの体調に対して神経質」だと思います。

体調のちょっとした変化、ちょっとした不快感、ちょっとした違和感に、非常にビビッドに反応する。

しかしそんなぼくは、それ以外のあらゆることに対しても神経質かというと、じつはそんなこともないのです。

普通ならもっと気にして良いはずのことでも、ぼくはどっちでもいいと思う。

人がぼくのことをどう思っているかとか、好かれているか嫌われているか、など。

実際に殴られたりするなどの実害さえなければ、ぼくはそういうことについてあまり考えたり、観察したりしない。

 

掃除をするようになって、どうしてココロが非常に落ち着くようになったのか。

思うに「神経質の矛先を見つけた」からかもしれないな、と思うのです。

掃除ほど神経質な性分を存分に利用できることは、ほかにあまりありません。

部屋の隅をまさに爪楊枝でつつきながら掃除をするということは、神経質でなければ、なかなかできることではないでしょう。

しかしぼくは、できる。ていうか、そうしたい。強く思う。

そしてそれをすると「ぼくの神経質」がよろこぶのです。

やったやった、思う存分、こころを使えるぞ!

そこで気がついたのが、ぼくはそもそも汚れについて神経質ではなかった、ということ。

きれいに掃除した床に飼い犬が上がってきて毛をいっぱい落としていったり、家族がお茶をこぼしても、全然なーんにも思わない。

あらそう、てなもんです。

むしろ「おっ。また掃除をする理由ができたな。ラッキー」ぐらいに思う。

そう、ぼくはきれい好きでも潔癖症でもなんでもなく、ただの「掃除好きなおじさん」だったのです。

掃除ができれば、それでいい。汚れることについては、じつはまったく無頓着だったのです。

これがもし「汚れ自体が許せない」というタイプの神経質だったら、掃除が辛いものになる。

作品をケガされたような心境になる。

せっかく綺麗にしたのに! 汚さないでよ! みたいになって、よけいな怒りを生む。

ぼくは偶然、掃除に向いている性格だったのです。

 

神経質というのも一種の「エネルギー」なのでは、と思うのです。

神経質がひどい人は「神経質エネルギーが多い」ということなのかもしれない。

掃除をガッツリやることで非常にスッキリして、こころのモヤモヤがすぱあっと晴れるのは、溜まっていた神経質エネルギーを放出したからかもしれません。

そしてじぶんの体調への関心が薄れてきて、体調に対してそれほど神経質でなくなるのも、掃除のほうに神経質エネルギーを回してしまったので、そっちのほうにエネルギーが向く余裕がなくなってしまったのかもしれない。

不眠症や恐怖症のひとは、自分で自分のことを神経質だと思っていることが多いけど、じつはそれ以外のことについてはビックリするぐらいズボラだったりすることもあります。

え、そこは気にしないの? なんで? ホントにいいの? それで? みたいな。

これは本当の話なのですけど、不眠症で悩んでいて、自分が神経質でつらい、いろんなことが気になって仕方がない、と悩んでいる男性がいました。

しかしその人は、夏場には下着のトランクス一丁とTシャツで、外をうろつくのです。

おまえ! スボン穿けよ! それはまずいだろうがよ、と注意すると、

「どうして? だって短パンと同じカタチじゃない。ハダカでもないわけだし。見た目も短パンと同じでしょ?」

ちがうよ! 全然!

そこはもっと、気にしろよ!

彼は自分のことを神経質で感受性が高いと言っていたけど、それは「眠ること」について「だけ」なのでした。

それ以外のことについては、神経質じゃないどころか、もう「ばか」ですわ。

 

必ずしも、ありとあらゆることに神経質ではないのです。というか、そんな人はいないけども。

不眠症の人は、眠ることに対して、神経質の矛先のほとんどが向いている。

恐怖症の人は、その対象に対して、神経質の矛先のほとんどが向いている。

そんなふうなことを、思ったりするのです。

性質が問題なのではなく、その「向き」が問題なのでは。

 

その人に合う神経質の矛先は、たぶん人によって違うのでしょう。

ある人には掃除であったり、ある人には筋トレでじぶんの肉体美を叩き上げることだったり、ある人には車の整備であったり、ある人には絵を描くことだったり、ある人には目標を達成することだったり。

このあたりは、その人それぞれの性格や経験、環境などが決めていくのだろうと思います。

神経質を存分に発揮できて、楽しいこと。

それが「向いている」ことなのでしょう。

神経質を発揮できない、あるいは神経質を発揮させると無性に疲てしまう、楽しくない、というのは、向いていないこと。

 

神経質は、エネルギーだ。

そう考えれば「じぶんの性格を変える」などという暴挙に出なくても済みますよね。

ていうか、そんなことはどだい無理なのだし。

それよりも「矛先を変える」ほうがよっぽど現実的だし、実現可能性も高いはず。

 

矛先を変える方法。

それは「一回全部出す」ということなんだろうなあと思います。

なにか、ぞんぶんに神経質を使い切れることを見つける。

使い切って「神経質エネルギー」の絶対量が少なくなってきたら、いがいとスーっと矛先を変えることができるのかもしれません。

エネルギーが余ったままフル回転で回っていると、方向転換は難しいですからね。

暴走する車のコントロールが、効かないように。

 

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