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「なぜ?」は、いらない。

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元FBIの交渉人が、こんなことを言ったそうです。

「世界中どこに行ってもどの文化圏でも、Whyという質問は相手を身構えさせる。」

元FBIの人質交渉人が書いた本を読んでから、会話で『ある言葉』を使わなくなった話

 

「なぜ?」

これはじつは、最もストレスフルな言葉のひとつみたいですね。

 

そういえば子どもの頃、エジソンの話をよく聞かされました。

「エジソンは、幼少のころから『なぜ? なに?』と常に疑問を持っていた。だから、あんなにエラくなったのだ」

エジソンは「なぜなに坊や」などとも、言われていたそうです。

ウソか本当かしらないが、こんな話をもとに、とある風潮が確かにありました。

「疑問を持つことは、すばらしいことだ」。

 

うそつけ。

オッサンになって、ぼくは心底思うのです。

疑問の「疑」は「うたがう」ということ。

疑いを四六時中持ち続けていたら、絶対によくないと思います。

あたまにも、からだにも、よくない。

怒りと妬みと悲しみと疑いと憎しみは、病気をつくる。

ていうか、それそのものが、まさに苦しみといえます。

仏教でも、そーゆーのはできるだけ捨てろ、といいます。

 

ぼくのパニック障害がなかなか治らないのも、「疑問」のせいというのも、たぶんあります。

「なぜ、こういうことになるのだろうか」

「どうして、こうなるのだろうか」

「どこが、おかしいのだろうか」

「なにが、わるいのだろうか」

 

なぜ、どうして、どこが、なにが。

 

 

 

疲れるわ!

ふつうに。

 

先のFBI交渉人の話じゃないですけど、ぼくは、ぼく自身に対して、四六時中「Why?」を投げかけていたのです。

そんなことをしたら「じぶんじしんが身構える」に、きまっていますよね。

「なぜ?」は、人を緊張させるのです。

 

ほんとうのリラックスは「信じる」ことで、はじめて生まれる。

赤ちゃんが、羨ましいほど幸せそうにグッスリ眠っているのも、お母さんを心底信じ切っているから。

ほんとうは、だれでもむかしは、そうだった。

しかし成長するにつれてみんなは「疑うことは、すばらしい」などという「邪宗」を仕込まれて、どんどん幸せでなくなっていくのでした。

 

「疑問」と「疑う」とでは、すこし違うのではないか?

という「疑問」。

いや、基本構造は、同じですね。

「こころがフラフラしている」というところが、まったく同じ。

 

「既成概念に疑問を持て」

まあ、たしかに聞こえはいいですけどね。

でも、持たなくても、べつにいい。

それは、そうしたい人が、そうすればいいだけのことです。

いちいち真似しなくてもよろしい。

既成概念を信じるのもまた、その人の自由であります。

 

まあふつうに考えて四六時中「なぜ?」「どうして?」「なにが?」を連発するようなやつがいたら、腹立つよね。

なぜ、腹が立つのか。

聞かれたら考えなくちゃならないし、答えなくちゃならないからです。

そしてじぶんの答えが正当かどうか、相手の要望に合致した答えかどうか、いちいち脳内フィードバックもしなくちゃならない。

疲れるわ! 聞く人を、嫌いになるわ!

 

かわいい子犬を、ふたりで見ていたとする。

「かわいいね!」

という「同意を求める投げかけ」は、人を疲れさせない。

むしろ、答えが「YSE」なら、幸福度が上っていく。

しかし「なぜ、イヌを可愛いと思うのだろうか。」などと、そんな無粋なことをいちいち言い出して考えていたら、「しあわせ」がどこかへ飛んでいってしまう。

仮にその謎を解いたとしても、その快感は「かわいいね」には、永久に勝てないよ。

疑問は幸福を希釈するのであります。

 

疑問を投げかけて答えを求めるよりも、「同意」を求めたほうがいい。

疑問とは、じつは「分断」なのです。

問う人と、答える人の間に、長大な溝がある。

しかし「同意」は、人と人との、こころの橋になりうる。

 

これは何も、対人技術だけの話ではないと思います。

自分自身に対しても、そうだ。

だってじぶんも、人間だもの。

「なぜ?」を捨てきれないから、悩みは消えない。

 

 

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