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突き上げるちから、引き上げるちから

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なんかこー、のぼせる的な。

なんかこー、アタマふらふらする的な。

風邪でもないのにそーゆーのが出るのを「自律神経の失調」といいますね。

 

よくよく観察してみると、パニック発作が出るのも結局はこの「のぼせている」時が多いのでありますね。

あたまに、血が上っているときなのです。

最近はすげー機嫌が良いので、アカンアカンアカン、やばいやばいやばい、その感じにはなりません。

ですが「もし、あとちょっと気持ち的にダウナーだったら、こりゃあ発作になるな」というのは、よくわかります。

機嫌の良さのパワーで、水際でギリ発作を防いでいるという感じ。

 

「だから結局、ポイントは機嫌の問題なのかな。メンタルの問題なのかな」

というのは、たぶんちがうと思う。

やっぱり本質的には「あたまに血がのぼりやすい」というメカニズムが、いちばんの原因だと思うのであります。

 

さてでは、どーしてアタマに血やエネルギーが上ってしまうのか?

このことについては、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、ぼくはここで「突き上げる力」「引き上げる力」論を展開してみたい。

 

まずは「突き上げる力」。

これはいわば、「重力の跳ね返り」のことを指すように思うのです。

重力というのは物質に対して鉛直方向に常にかかっていますが、なのにどうして、物体は地面のなかにズブズブと沈んでいかないのか。

それは地面があることで、その物質に「重力の跳ね返り」のちからがかかっているからです。

これが重力と拮抗することによって、物体はそれ以上落ちていかない。

弱い沼地のような地面は強い反発力を生み出せないため、物体は沈んでいく。

ゴムのように強い弾力があるとこの拮抗が不安定になって、質量を超えたエネルギーがかかっている物体は、バウンドする。

 

いっぽう、「引き上げる力」というのは、いわば「新規のエネルギー」。

立っている人が床の鉄アレイを持ち上げるためには、まず自分自身が安定していなくてはなりません。

自分の重力+鉄アレイの重力を十分に支え、跳ね返すことができる強い床がないといけません。

その人は、腕や腰に「新規のパワー」を生み出し、物体を持ち上げる。

そのときに足や脚を通じて、自分の重力+鉄アレイの重力が床に伝わるわけですが、床がしっかりしているおかげで、そのぶんのパワーが床から跳ね返ってくる。

よって「物体の重さ+α」のパワーで、鉄アレイを首尾よく持ち上げることができるわけです。

引き上げる力とはつまり、汎用性のない「専用の新規エネルギー」といえます。

 

は?

なにいってんのお前?

 

……なのですが、つまりぼくは、アタマがのぼせやすい人はこの「引き上げる力」を多用しすぎているのでは、ということが言いたいのです。

姿勢の話です。

たとえばデスクワークで、椅子に座っているとする。

そのときに、姿勢を維持するために「突き上げる力」をうまく利用しないで、「引き上げる力」ばっかりを使っているのではないか?

引き上げる力とは「専用の新規エネルギー」なわけで、つまりようするに、使いすぎると疲れるということです。

いっぽう「突き上げる力」は一種の無限エネルギーのようなものだから、使うも何も、そのまま無償で利用することができる。

 

姿勢をただしくしなさい!

よく言われます。

そこで「良い姿勢」を実現するために、こんなことも良く言われるのです。

「あたまを天井から引っ張られているような感じに」

「後頭部を天井にくっつける感じで」

これです。

ぼくは、これこそが「引き上げる力」を使った姿勢維持なのではないか、と思うのです。

ぼく自身、姿勢にはかなり悩んだことがあって、ヨガや整体、姿勢教室的なところなどで、上記のようなアドバイスをよく受けました。

ガキの頃から姿勢が悪いとしゅっちゅうビンタされたり、定規でシバかれていた、というのもあります。

「姿勢とは、引き上げるものである」

そのうち、そういうふうな考えが身に染み付いていったのです。

 

ちがうかもしれない。

よく考えてみれば、じゃあなんのために「骨」があるんだろう?

「骨」こそが、「突き上げる力」=「無限の汎用パワー」を利用できる格好の丈夫さと、硬度を持っている「構造体」なのです。

これを利用せず「筋力」などという、限定的で専門的で弱いエネルギーを使って「引き上げる」から、むちゃくちゃ疲れるのではないのか?

とくに椅子に座っているときに「突き上げる力」を利用せず、「引き上げる力」ばかりを多用した場合、首のうしろ、僧帽筋、広背筋を、ものすごくつかう。

そうなると、そこに血液やエネルギーが集中しはじめます。あたりまえだけど。

で結局、上半身にバカみたいに血を集めて、

「なんかのぼせるんだよなあ! なんだこれ!」

とか文句言う。

あほか!

そりゃ、そうなるやろうも!

「引き上げて」いるんだからっ!

 

パニック障害や自律神経失調症のひとが、多すぎるのですよ。

ストレスがー、情報化がー、価値観がー、性格がー、じゃなくて。

純粋に「座ることが多くなりすぎた」ような気がするのです。

それも「引き上げて座る」ことが。

 

急ごう、頑張ろう、やり抜こう、達成しよう、なんとかしよう、じぶんでやろう、いっしょうけんめいにやろう、発見しよう。

そういう意識が強いと、どうしても「引き上げる」ちからが強くなります。

「能動的なちから」なので。

また「引き上げる筋力」が強くなると、急ごう、頑張ろう、やり抜こう、達成しよう、なんとかしよう、じぶんでやろう、いっしょうけんめいにやろう、発見しよう、そういった「能動的な意識」も強くなるような気がします。

 

「突き上げる力」を、最大限効率よく利用する方法。

それはたぶん「乗る」なのですよね。

せっかくりっぱな骨盤と、りっぱな背骨があるのです。

カタいカタい、一説によればある種のコンクリートよりも硬いともいわれる、すげー丈夫な骨。

それに「乗っかる」ということが、汎用性高く無限で強力なあの「突き上げるちから」を、利用するということです。

 

思うに、子どもの頃から「自力で実行する」ということばかりをトレーニングをしてきたいっぽう、「なにかに頼る」とか「なにかに乗っかる」というトレーニングを、盛大にサボりつづけてきたんだと思うんですよね。

オッサンになってやっとわかってきたんですけど、「自分で自分の道を切り開く」とかいうのは、ありゃあ一種のカルト宗教ですわ。

実際には、そんなことは、理論的に無理なんですよね。

まず「自分の道」というのは、前に「作っていく」のではなくて、後ろに「できていく」いくものですし。

掘削機じゃねーんだから。

それに「この道は、自分で切り開いたんだ!」とかエラソーに思っていても、実際には、無数の人々のお世話になってできたことです。

「自分で切り開いた」のではなくて「助けてもらって、どうにかこうにか、できた」のです。

だから「自分で自分の道を切り開く」というのは、ただの妄想の一種にすぎません。

 

そんなショボい道よりも、じつは「乗っかって開いた」道のほうが、断然よい道なのですよね。

みんなで協力してできた道だから、みんなが使いやすいようにできている。

自然当然の流れに沿ってにできた、ケモノ道のような道だから、なかなか消えない、長いこと使える。

いっぽう「自分だけで頑張って切り開いた道」は、そいつのためだけの道だから、そいつが死んだら使えない道になる。

そんな道が増えていったら、この世はそのうち「迷路」になっちまうわ。

あ、そうか。

だから最近は、なんだか世の中が迷路っぽいのかな?

 

長いものには、巻かれろ。

強いものには、乗っかれ。

いちいち思春期みたいに逆らうな。

それは、ズルいのでも弱いのでも、セコイのでもないです。

じつは人間は、そうすることで「世界最強」になるように、できていた。

だからこそ、みんなと仲良くして、助け合うことが、とても大切なんですよね。

 

内部的には「じぶんの骨に乗れない」から「我が強くなる」のかもしれませんよね。

頼れるものはじぶんだけだ、みたいな。

うそつけ。

ほんとうはいまここに、デカい強い骨があるというのに。

不器用なんじゃなくて、気がついてないだけなんだと思う。

 

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