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自由とは、余白のことである

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やったねぇ~。

今回も、すげぇ捨てたねぇ~~。

 

もうこれ以上無理、ぐらい捨てましたね。

そうしましたら、押し入れがスッカスカになったのであります。

整理のために入れておいたスチールラックのほうが邪魔というぐらいで、このスチールラックも、来週分解して捨てるのであります。

 

押し入れがスカスカになって、感じましたよ。

 

自由だっ!!!

 

自由とは、なにか?

この議題は永久の難問ではあるけれど、じつは「ただ捨てる」という、しょーもないことでも、あんがい自由を感じますよね。

 

逆に不自由とは、なにか。

それは要するに「身動きが取れない」ということであります。

なぜ身動きがとれないかというと、動きたい方向に制限があるためです。

制限とは、オブジェクトである。

つまり「有る」ということである。

 

なにかがそこに「有る」ために、制限はうまれる。

「ない」ところには、制限は生まれない。

余白だ。

余白とは、自由の必須条件なのであります。

 

余白を、埋めよう埋めようとする心情があります。

たとえばスケジュール帳を真っ黒にしておかないと、気がすまない人もいる。

がらーんとした空間では落ち着かなくて、なにかモノを置いて空白を埋めないと、どうしても気がすまないひともいる。

ぼくがむかし、そうでした。

しかし、そういった心情が結局災いして、ひとは「不自由」になっていくのでありますね。

余裕を失っていく。

あたりまえだっつーの。

「埋めたい」という欲求をそのまま許すということは「余裕を減らしていく」ということに他ならないのですから。

空白を、どんどん減らしていってしまう。

そしてついに、「わたしはなんだか、不自由である!」などと、のたまうのでありました。

 

「家の状態は、こころの鏡である」

これはまったく、そのとおりだなあと思います。

人間という生き物は、いろいろなことから影響を受けて生きています。

モノにあふれ、余白のすくない、みっちりとした空間で過ごせば、こころの中身も、そのとおりになる。

ぎゃくにモノがすくなく、余白の多い空間で過ごしていれば、こころの中身も、そのとおりになる。

こころに余裕がない。

そういうひとは、家にもモノがいっぱいあって、余白がないのかもしれません。

 

がらーんとした空間。

これを「虚」という。

老子も言っているけれど、「虚」こそが「本質」なんだそうです。

コップとは、コップそのものに価値があるのではなく、その「空間」にこそ価値がある。

金銀財宝を惜しみなく使って世界一贅沢なコップを作っても、液体を入れる「空間」がなければ、それはもうコップではない。

コップとしては、100円ショップで売っているもののほうが、はるかに価値が高いといえます。

 

虚とか、無とか。

この世は相対的世界なので、「充実」がほしければこそ、かならず「虚」も同時にセットにして持っていなければ実現はできないのでしょうね。

勝者は、敗者がいてこそ、存在できる。

善は、悪があってこそ、存在できる。

敗者や悪が消滅したら、勝者も善も、同時に消滅する。

 

自由とは、なにか。

それは「虚のおおきさ」のことを、指すのだと思います。

虚が大きければ大きいほど、「実」を増やすことができる。

巨大な倉庫には、いくらでもモノが入れられるように。

こころも、おなじですよね。

こころのなかに、どうでもいいモノゴトがたくさん詰まっているから、自由になれない。

一回全部、捨てちまえ。

そうしたら、壮大な「余白」がうまれる。

何を入れてもいい、あるいはもちろん入れなくてもいい、そんな自由。

「入れられない」「動かせない」「捨てられない」。

不自由とは、ようするに、そういうことです。

 

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