「私」という親友

きゅうにドカーっと疲れが出て、風邪を引くとか。

お腹が痛くなって、熱が出るとか。

パニック発作が出るとか。

意味不明に怒りが出るとか。

ぼくには、そういうことが多い。

当然それぞれに理由があるんだろうけど、ざくっとまとめると、

「まとめて疲れが出る」

ということがぼくにはけっこう多いような気がする。

 

自分ではそう感じたりはしないんだけど、結果を見てみると、やっぱり疲れているんだろうか。

でも、何に?

どうして?

わからない。

 

自分を、客観的に見られていないのだと思うのです。

だから、どこまでやればどれぐらい疲れて、どのような帰結に至るかが、読めていない。

 

「私とは、私の肉体である」

「私とは、私のこころである」

「私と他人とは、別ものである」

この「勘違い」、つまり主観的認識から、すべての苦しみが生まれるといいます。

またそのように思うからこそ、じぶんのことがかえって見えなくなってしまうのかもしれません。

 

とはいえ「じぶんを客観的に見よ」と言われたところで、むずかしい。

どうすればいいのだろう。

そこで思いついたのですが、

「私は、私という親友である」

と考え見えてみては、どうか。

私は私ではなく、私という、たいへん仲の良い親友である。

 

私A「最近しんどそうだな。どうした?」

私B「疲れが出たんだと思う。ちょっと、嫌なこともあったしなあ」

私A「見てたらおまえ、ずっと仕事してるからなあ」

私B「そうか? 気楽なもんだぜ。家で仕事してるんだから。 めんどくせえ上司といかいないし、通勤だってない。お客さんも選べるし、何よりみんないい人なんだ。そもそもおれ、この仕事、結構好きなんだよな、なんだかんだいって」

私A「なるほどな。たしかにうらやましいぐらいだ。でもさあ、それこそが、原因なんじゃないのか?」

私B「え?どういうこと?」

私A「好きな仕事、っていうこと。それと、自由なこと。」

私B「いや、それはとても良いことじゃないか。いつでも休めるんだぜ。無理しなくていいし。」

私A「でも見てみろ。いまのおまえは、とても疲れているぞ」

私B「・・・。」

私A「好きなことを、妨害なく、やれる。たしかにすばらしい。でもそれだからこそ、ぶっ通しで仕事してたりしないか」

私B「確かに、そういうところはある」

私A「その構造は、アレだ、【ネトゲ廃人】と似ているぞ」

私B「あっ!・・・」

私A「対象が生産的な仕事か、非生産的なネトゲかという違いだけだ、構造的には。おまえは「仕事」だから、ダメだとも思わないのだろう」

私B「確かに」

私A「ネトゲ廃人がどうなるか、知っているだろう? 家から出られなくなって引きこもりがちになる、怒りっぽくなる、体力が落ちる、社会を拒絶するようになる・・・」

私B「まさに、おれの今の状態だ」

私A「もしおまえのその仕事、それほど好きでもなかったら、どうする?」

私B「まあ、やらないわけにはいかないから、時間を決めて集中してやるんだろうな。たとえば1時間おきに10分休憩をはさむとか、午前中だけとか決めて、あとは違うことをするとか・・・」

私A「あのな、それが、ふつうなんだぜ。」

私B「・・・おれ、ネトゲ廃人と同じかあ」

私A「それにどうせ、おまえのことだ、多少疲れていても『この部分が終わるまで、がんばろう!』とか思うんだろう。」

私B「そうなんだ、そして『あとでまとめて休もう』と考える。」

私A「でも『好きなこと』だから、結局ろくすっぽ休まずに、ついまたやってしまったり。」

私B「そんなときに限って、急ぎの仕事がきたりして、これまた、やっちゃうんだなあ。責任感が強すぎるのかなあ。まじめすぎるのかも」

私A「責任感が強いのは、とてもいいことだろ。それがあるからこそ、お客さんが逃げていかないんだから」

私B「そのとおりだと思う」

私A「なら問題は、おまえの責任感や考え方なんかじゃなくて、行動だけだろう。」

私B「そうなのかなあ」

私A「おれは、おまえはよく頑張ってると思うぞ。もしダメ人間なら、仕事そのものを失っていたはずだし、結果も出ていないだろう」

私B「そう言われるとすこし、自信が持てるかな」

私A「おまえがわるいんじゃなくて、「やりすぎ」がわるいだけなんじゃないかな。好きなだけに、無理してしまう。逆にいえば、おまえには性格的な問題とか、考え方がおかしいとかは特にないんだから、やりかたをかえるだけで、ずいぶん良くなるかもしれないぞ」

私B「うん、なんかそんな気がしてきた。ありがとう、考えてみるよ」

 

「自問自答」とは、すこし違うのです。

自問自答だと、「私が」「私と」話をするので、「私を責める」ことがあります。

自分自身に対しては、いがいと遠慮ないときがありますからね。

とくに怒りを抱えているときは、自分自身にやつあたりをしてしまうこともあります。

これを自暴自棄という。

 

親友が、元気をうしなって、自信を喪失していたら、どうする?

励ますに、決まってる。おまえにはこんなにいいところがある、だから落ち込む必要なんて、まったくない、そう言ってあげるだろう。

親友が、とても疲れていたら、どうする?

「休め」って、言ってあげるだろう。

親友が、熱が出る、痛む、そんな明らかな不調を訴えていたら、どうする?

「がんばれ」なんて絶対に言わない。仕事なんかどうでもいいだろ、仕事は生きるためにすることで、仕事のために生きてどうする! 今は休め、って、怒ってでもいう。

親友が、不安を抱えていたり、心配でそわそわしていたら、どうする?

「気にするな」「絶対だいじょうぶだって」と、言ってあげるだろう。

親友が、だらだらして、酒浸りで怠惰な生活ばかりを送っていたら、どうする?

「おまえ、ちゃんとしろよ! そんなやつじゃないだろ!」って、叱るだろう。

 

つい無理をしてしまったり、頑張ることばかり強制してしまうのは、「私は私」と考えていたり、「私という奴隷」に語りかけているからかもしれない。

 

同じ「私」でも、「私という親友」に、語りかけてみる。

そうすると、意外な観点が生まれることがあります。

「おれはネトゲ廃人と同じことをしている」

こんな発想、ただの自問自答なら、きっと出てこなかったと思います。

 

それに、「まじめすぎること」「責任感が強いこと」を、まるで欠点のように考えてしまうこともあります。

そう考えるのも、「私は私」と思っているから。

親友に、そんなこと言うわけないですね。

まじめで責任感が強いことは、だれがなんといおうと、その人の美点だ。

それが悪いことにつながるためには、かならず「行動」という媒体が必要。

問題は性格じゃなくて、それをどう使ったかという「行動」にあるだけ。

親友の性格を全否定したりは、絶対にしませんよね。

その性格もひっくるめて好きだから、親友なのだもの。

 

あたかも困っている親友の相談に乗ってあげるかのように、「他人事でテキトーに流す」のでもなく「飲み込まれて一緒に悩んでしまう」のでもない、その中間。

親友に対して、いたずらに傷つけるようなことを言ったりはしないでしょうし、怒りをそのままぶつけることだって、しないと思います。

「客観的」とは、じつは案外、そんなことなのかもしれませんね。

 

 

 

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