方向音痴とパニック障害

さいきん、思うのです。

「パニック障害と方向音痴には、有意な関係性があるのではないか」

もっと厳密にいえば、精神的・神経的不調を訴えやすいひとと、方向音痴には、なにか関係があるのでは、というところです。

 

あくまでぼくが知っている範囲での話なので、なにも科学的でないし、そんな論文があるわけでもありません。

ただ、さいきんはパニックやウツ、神経症など、わりと「こころの病」を抱えているひとが、知り合いにも多いです。

そしてそういう人たちの共通点として「けっこう方向音痴である」ということに気がついたのです。

またいっぽう、ストレス耐性が強くこころの病と無縁なひとは、ぎゃくに「イヌばりに方角感覚が鋭敏」というのもあったります。

統計をとったわけではありませんので、もちろん、偶然の可能性もありますが。

 

ただ、理論的にはありうるな、と思ったのです。

というのも、各種の神経症やウツというのは「主観の病」だといえるからです。

こころの病は、世界観の病でもあります。

じぶんが接しているこの世界に対する認識のしかたが、あまりに主観的であると、ストレスが増大します。

思い込んだこと、想像したことが、すくなくとも内部的には「真実」になってしまうからです。

こころは、空想と現実の区別をつけることが、基本的にはできないのだそうです。

つまり「現実なんぞクソくらえ」なのですね。

 

そう思ってしまったら、その人にとっては、その思いは「事実」になる。

それが正しかろうが、誤っていようが、そうなる。

これはまさに、パニックや神経症の、あきらかな特性なのですよね。

だから、お前は今死なないって! 絶対! どう考えても、そんなわけないだろ! どこも悪くないんだから!

そう人からいわれても、あるいはアタマではわかっていても、そうは思えないですよね。

「いいや。もう、死ぬしか、道は残されていない。」

そういうふうに、認識してしまう。

 

若い女性にパニック障害が非常に多いのと、若い女性に方向音痴が多いのに、なにか関係性はないのでしょうか?

そしてぼくは男性だけど、けっこうな方向音痴です。

母親はパニック障害ではありませんが、神経症的傾向が強くて、突発性難聴とか自律神経失調症とか、不安神経症とかがあります。

そして母は、ものすごい方向音痴です。ぼくはこれを、受け継ぎました。

しかし父親は、神経的にはまったく問題ありません。いたって正常。

そして父は、イヌばりに方向感覚が鋭敏です。

一回しか行ったことがないところでも、いや、なんなら、初めて行ったところでさえ、道がある程度わかる。

ぼくたちからすれば、親父は「超能力者」に見えます。

ウソこけ、ほんとうは昔何度も来てたんじゃないの、そう疑うことさえあります。

 

誤解してほしくないのは、「方向音痴が下等」とかいうことを言っているわけではない、ということです。

方向音痴なひとは芸術的な感性や文学的素養を持っていて、文化的に高度なひとが多いような気もします。

もしかすると、芸能人に異様にパニック障害が多いのも、こうした芸術的感性のようなことが特異的に発達しているからかもしれませんね。

芸術とは、まさに「主観の極み」ですからね。

芸術とは、主観をどんどん掘り下げていって「集合的無意識」とでもいえる内的な公約数を発見するわざでもあります。

あるいみ、求道的ともいえる。

しかし芸術に一般的な客観性をもたせると、それは純粋性を失って、商業芸術となります。

それがわるいということではありませんが、求道的・哲学的側面は失われて、芸術とはまったく別物になります。

方向感覚にすぐれているひとは、いがいと芸術的素養がすくなくて、とても乱暴ないいかたをすると、センスがない人も多い。

絵画から受けるすばらしい心象はさておき「それがいくらするのか」というほうばかり考えたりする。

これはある意味、つまらない。

 

なにごとも、バランスが大事だといいます。

主観的傾向が強いこと自体には、たぶん罪はないと思われます。

しかし、あまりにもそちらの世界に傾注してしまうと、世界を主観だけに頼って認知するようになってしまう。

結果、世界との認知的な齟齬を多く抱えてしまい、とても苦しい思いをしてしまうようになるのかもしれません。

主観半分、客観半分。

「楽」なのは、これなのかもしれないな、と思います。

それに、せっかくの天分を捨ててしまうというのも、もったいないです。

 

だから方向音痴でパニックなひとは、たまに「方向感覚をとぎすます」訓練もしてみたらいいのでは、と思ったのです。

有酸素運動だの筋力だの距離だのという、これまた「主観」をベースにした散歩やジョギングではなく、

「わたしはいま、この町のなかで、どの位置から、どの位置まで動いているか」

というようなことを、あなまのなかで地図をつくって、歩いたり、走ったりしてみる。

「作用しているわたし」ではなく「認識するわたし」を、ぐーっと天にまで引き上げて、トリの目線で、じぶんの動きを追う。

そういったことを、たまにやってみるのもアリなのでは、と思いました。

そうしたら方向音痴も少しはマシになって、一石二鳥かもしれませんし。

 

 

  • ぽぽんた より:

    トリ と  いっしょ  に
    とんじゃう ひと も っ ☆(・ω<)

    https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/011000007/

    いっつ も。
    迷子 なのかも しれない なあ。
    基本的 に。
    そういえば。わたし。みたいな。˘ ˘*ゝ

    • TERA より:

      コメントありがとうございます。
      ぼくはちょっと高所恐怖症なので「ぞわっ」ときました。

      迷子、なるほどですね。

      なぜ、迷子になるのか。
      それは「いま、じぶんがどこにいるのか、わからない」からですものね。

      じぶんの立ち位置を、知る方法。
      それこそが「客観」なんでしょうね。

  • いぬぴっと より:

    パニック障害16年ですが、めちゃめちゃ方向音痴です。
    迷って泣くこともしばしば。

    でも、発作ではもう泣きません。

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