最近は「疲労」に気をつけよう、と思っています。
2週間も倒れるなんて、やりすぎだ。
暇なのと、せっかくなので(何が)、じぶんの気持ちがどういうふうに動いているかということをたまに観察したりしていました。
そこで気がついたのが、疲労というのは「否定」から生まれるのかもしれないということでした。
ぼくが疲労し、オカシクなっていくときに行っている行動を見てみると、ある種の共通点があります。
・断捨離をしたいと思うようになる。
・模様替えを頻繁にする。
・細かいことが気になるようになる。
とくに断捨離というのは、わりとわかりやすいなと思いました。
断捨離そのものが良くない、というのではありません。
断捨離をしようと強く思うようになった経緯、そしてそれを継続していくときに起こるこころの状態に注意をしたほうがいいな、と思うのです。
モノを一気に捨てると、とてもスッキリします。
単純に部屋が広くなったり、ついでに掃除をするので清潔になったりして、良いことは多いです。
何より「必要と不要を見極める」ちからもつきそうですし、「いまと無関係の過去」を代理精算するという効果もあります。
物理的にも、メンタル的にも、良いことは多いような気がします。
「断捨離をしよう!」
そう決意したことは、良いことなんだと思います。
しかしよくよく注意していないと、そのうちに「その決意こそがメンタルを弱らせる」ことになるようなのです。
つまり最初は「肯定」から入ったのに、そのうち「否定」の比率が高くなってしまう。
断捨離はメンタルに良いと聞いたから、やってみよう!
これは「肯定の行動」です。
よりよい精神状態を手に入れたい、部屋を広くしたい、きれいにしたい。
そういった前向きなベクトル。
しかし断捨離を続けていくと、徐々に「否定」が増えてくるのです。
・余分なモノを持っていてはいけない。
・モノは増やしてはいけない。
・買ってはいけない。
生きていくのに「あれがだめ」という禁忌が、どんどん増えていってしまうのですね。
この構造は、最初は純真な信仰心であったものがカルト化していく景色とよく似ています。
厳密化と拒否。
いくら良いことをしていても、厳密化と拒否が発生した時点で、抑うつを発生させるようになります。
これは、あらゆることに言えます。
ヨガでも、ジョギングでも、ウォーキングでも、掃除でも、食餌療法でも、とにかく「良くしよう」「治そう」と思って行うことには、いずれ必ず「厳密化と否定」が顔をのぞかせてきます。
最初は気持ちいいなあ、体調がよくなるなあ、いいなあと思って行っていたヨガも、
「毎日しなくてはならない」
「今朝はヨガをするのを忘れたので、調子がわるいのではないか」
「肉は食べてはいけない」
「菜食でなければならない」
「呼吸は深く長くしなければならない」
最初は「気持ちいい」「たのしい」「すっきりする」「もっと上手になりたい・知りたい」などの肯定的な感覚や意図が多くを占めていました。
しかしそのうち義務と禁忌のシェアのほうが増えてくると、それはかえって心身を痛めつけるようになっていきます。
しかし本人は上位意識で「良いことをしている」と思っているため、無意識に受けているストレスに、気がつきません。
そして思うようになる、
「どうして良いことをしているのに、いっこうに良くならないのだろうか」
あたりまえだっつーの。
メンタルが調子わるい、そうじぶんでわかってるのに、「いやなこと」をわざわざ増やしていっているのですものね。
なにがストレスかといって、結局は「◯◯してはならない」というタブーこそが、いちばんのストレスなのですよね。
「◯◯したい」は、強くて前向きです。
しかし「◯◯してはならない」は、後ろ向きで過酷なのです。
「◯◯に失敗しない方法」
「◯◯で絶対やってはいけない、▲つの方法」
セールスコピーでよく見かけますよね。
これはわりと効果の高いコピーです。
なぜ効果が高いか。
それは「ヒトは禁忌を好む」からです。
実際に、あるいは確実に成果を生む行動というのは、すべからく「肯定的行動」です。
「してはいけない」という、否定的行動さえ行えばうまくいくなどということは、実はほとんどないのですよね。
しかしヒトとは怠惰です。悪い意味ではなくて。
「してはいけない」を守ることは、そこそこシンドイ。
なので「シンドイことをしていれば、良いことが起こるのではないか」ということを、つい考えてしまうのですね。
お酒さえ飲まなければ、健康になれるのではないか。
タバコさえやめれば、健康になれるのではないか。
「お酒を飲みすぎれば体にわるい」は、当然です。
でも「お酒を飲まなければ健康になれる」というのはまちがいです。下戸は全員健康かと言うと、そうでもありません。
タバコも同じ。
確かにタバコは健康にわるいです。しかしタバコを吸わなければ健康になれるという保証は一切ありません。
もともとタバコを吸わない人であっても、健康に問題があるひとは数え切れないぐらいいます。
十分条件に過ぎないものを必要条件にまで勝手に昇格してしまい、このことで「禁忌」が大きな顔をしはじめてしまう。
ストイックやまじめとは、じつは怠惰のあらわれでもあるのかもしれません。
ものごとを、単純化して捉え過ぎなんだ。
「しない」よりも「する」を優先する。
意外とたったこれだけのことで、こころは楽になったりもします。
「カフェインをとってはならない」ではなく「カフェインよりもカラダにいいものを飲もう」なのですね。
あれはだめ、これはだめ。
そんなことばっかり言って育てた子どもが、将来どうなるか。
考えるひつようさえ、ありませんよね。
不自由なのは、否定が多いからだ。
https://togetter.com/li/1331238
きくな ちんげんさい …
おひたし は
「怒らない」「否定しない」「助ける」「指導する」
なんて も 書いてある。
わたし は これ
わるくない と いうか
大事 だと おもった けれど。
http://blog.esuteru.com/archives/9287591.html
コメ欄 みるかぎり。
この 本質 を 理解 せず。
「甘え」としか とらえない うけとれない
雑な 或いは 意地のわるい 殺伐とした
感性の 者が 多い 気が して。
苦しみを 強要 し合う
この 世界の システム。
すこし でも。
そこ から 脱して。
意識
かわって くれれば と。
わたしは のぞむ けれど。˘ ω ˘
本質が言葉遊びに過ぎないからですね。
「ほうれんそう」「ちんげんさい」「おひたし」という言葉遊びで「まとまった」時点で、満足してしまっている。
そういうのはあくまで「忘れないための方法論のひとつ」に過ぎなくて、そこに真理があるかどうかは一切関係がありません。
報告しないほうが良いことも、相談しないほうがいいことも、実際にはありますもの。
いちばんいいのは「痛い目に合う」ことですね。
コメント欄に不可思議なのが多いのは、単純に若い人が多いからだと思いますよ。
だれしも一度は通る道ですから、大目に見てあげたらいいんじゃないかなと思います。
それに、雑な或いは意地のわるい殺伐とした感性に支配されている人は、ネットに集まりたがります。
類は友を呼ぶともいいますから。
そういうところに「行かない」というのもまた、こころの護身術の一つだと思います。