ぼくは外出恐怖だの電車恐怖だの、いろいろと言ってます。
そしてこれは大きな悩みであり、かつ、ぼくを不自由にしている元凶だとも、じぶんで考えていました。
その原因と治療法を、長期間に亘り精神医学や神経生理学、心理学、栄養学、はては宗教学や哲学、東洋医学や代替医療にまで求め回りました。
しかしそのような「理」にすがればすがるほど、かえって状態は悪化するのでした。
なぜか。
それは「理」というものが、本質的に「勇」と対極にあるものだからだと思うのです。
気の弱いものほど、理屈に頼る。
自信のないものほど、理屈をこねる。
臆病ものほど、知識を求める。
あたまの弱いものほど、理を自己防衛と自己満足のためにつかう。
勇なき者ほど、理を好む。
ぼくが抱えている不具合の、根源にあるものは「勇の欠如」だと思うのです。
いくら小賢しい屁理屈をこねまわしても、これからは、逃げられない。
かつて毎日ジョギングをするようになったとき、感じました。
ふだん抱えている不安や恐怖、違和感などは「押し返すことが可能である」。
ほんとうに、些細で根拠不明の不安や恐怖など、押し返すことができてしまうのです。
もし本当に「理」のとおり、ぼくが肉体的・論理的な不具合を抱えていたのならば、このような現象が起こることは、むしろ理に反します。
体力が向上したから押し返すことができるようになった、ということではないと思うのです。
「苦しいことに、あえて挑戦した」
このことこそが「押し返すちから」の、最大の成分だったのです。
肉体の弱点に原因を求め、それを改善することによって、精神の弱さを克服しようと考える。
骨格や栄養等の肉体面を改善すれば、精神も改善すると期待する。
セロトニンという物質を増やせば、こころが明るくなれると期待する。
そしてなにごとも、情報と知識でもって対峙しようと試みる。
この方針こそがまさに、勇なき者の心である。
基本方針が「逃げ」なのですよね。
肉体を労ること、休息をとること、時に逃げることは、確かにとても重要だし、決して無視してもいけない。
でもこれが「基本方針」に固定してしまったときに、精神は脆弱になっていくのですね。
あれが怖い、これが怖い。
あれが不安、これが不安。
わたしは弱く、わたしには不具合があるので、あれはできない、これはできない。
わたしには、こういう理由があって、これができない。
そのように、小さく、弱く、固く、みみちく、萎縮していく。
「理」にどっぷり浸かると、「理」に負けていくようになるんだと思います。
さいきんの世の中は、理屈っぽいことを、まるで良いことのように言うようになってしまいました。
でも古来より、何千年にもわたって、言われてきましたよね。
「あたまで考えるな!」
ここ百年弱、ちょっとデンキ関係で便利になったことや、上品になったことぐらいで、えらそうに「進化」などとぬかすな。
ヒトの本質は何ひとつ、変わっていないんですよね。
勇気のないものは、腰抜け、卑劣、姑息、臆病者と、なじられた。
いくら賢くても度胸のないものは、信用されなかったし、嫌われた。
度胸さえあれば、それだけで立派なことだった。
それで、正しい。なんにも間違ってなんかない。
むしろ、理屈っぽく、小賢しいものをウエに引き上げたこの世の中のほうが、すこし狂ってるんだ。
弱いものを守れるのは結局、智者ではなく勇者ですものね。
賢い人を育てるよりも、勇気のあるバカを育てるほうが、世界はうまく回ると思う。
すこしばかだけど、やさしくて、強いひとになろう。