「否定力」のほうが「肯定力」を上回ると、メンタルがおかしくなるようです。
「怒り」というのは、何らかの対象に対しての「否定」がその大本にあります。
「恐怖」というのも、何らかの対象に対しての「否定」がその大本にあります。
「不安」というのも、来るべき未来に対しての「否定」がその大本にあります。
「悲しみ」というのは、自分自身に対しての「否定」がその大本にあります。
さて、ぼくには、「現代医療に対する否定」の観念があります。
それがゆえに、ヨガ、東洋医学などの代替療法にこだわるところがあるのです。
原因はたぶん、大きく分けて3つあります。
まずは、パニック障害というものが、長年病院に通っても一切治らなかったことです。
むしろ、いろんな薬を飲まされたことで、一時期肝臓を壊しかけたことさえあります。
またそれ以前にも似たようなことがあり、腰痛が病院では一切治らなかった。
非常に高額なMRIなどの検査もして、著名な先生のことろで治療を受けたけれども、一切まったく良くなりませんでした。
そして、これが最も強烈にして最大の原因なのだけれど、8歳ぐらいのときに医療ミスで失明をしかけた。
アデノイドの手術のときにバイキンが入って、川崎熱というのにかかったのです。
失明すると言われたぼくは、非常な恐怖に苛まれつつ、ひとり入院をしていました。
ただ幸いなことに、失明はせずに済みました。
先生も「なぜ治ったのかわからない」と言っていて、これがむしろぼくには、怖かった。
「病院の先生にも、わからないことがあるのか。そんなにあやふやなものなのか」
最後の経験が、ぼくのパニックなどの潜在的な原因になっているかもしれません。
さておき、このような経緯があれば、医者嫌い、病院嫌い、現代医療の否定観念が生まれることも、不思議ではないかもしれません。
ただ、冷静に考えてみるのです。
ぼくが病院で助けてもらえなかったのは結局「腰痛」「パニック障害」だけだったということ。
川崎熱のほうは、確かに怖かったけど、一応治っています。
またほかにも、赤痢やはしか、水疱瘡などにかかったとき、捻挫、打撲のほか、肩峰突起などの大怪我も病院でちゃんと治してもらいました。
「治してくれなかったこと」に対してのイメージが勝っているため、「お世話になった・助けてもらった」ことが、隠れてしまったのですね。
だからぼくの「現代医療の否定」というこころの反応は、あまり正当とはいえないです。
正確にいえば、こういうことなのです。
「現代医療にも、苦手な領域はある。」
ただ、それだけの話。
とくに、ストレスなどの「こころの問題」「人の気持ちのケア」は、俄然苦手なようです。
ぼくの腰痛も、おそらくはストレスから来ていたのだと思います。だからなかなか、治らなかった。
しかしいっぽう、得意な分野はもちろんたくさんあります。
「現代医療の欠点だけに注目する」ことで、医療に対する不信感、不安感、恐怖感がうまれ、それはいずれ「怒り」になる。
どのようなことにでも不得意はあるし、この世界に完璧などない。
人間という存在が不完全で有る限り、病院の先生だって、不完全です。スーパーマンでもなければ、神様でもない。
こうして見てみると、否定の気持ちというのは、多分に「バランスを欠いたこころの反応」つまり感情論からの派生ということがあるのだと思います。
このことがきっかけで、必要以上に本人を苦しめることもある。
「具合がわるければ、病院に行けばいいや」
そう思える人は、比較的安心な生活を遅れます。
しかしいっぽう、
「病院は信用ならない、行きたくない」
そう思う人は、生活の不安が増えていきます。
医療に対する否定の感情が、普段の生活を息苦しくしていくのですね。
過去にこんな経験があったから、わたしの価値観はもう変更ができない。
……はたしてどうだろうか、と思うことがあります。
この世は不完全であり、みんないっしょうけんめいに、その不完全を埋めようと努力をしています。
その欠けたところがたまたま自分に行き当たったからといって、そこでスネたり怒ったりしてしまうのは、いかがなものなのでしょうか。
過去に得た経験が現在の自分を定義しているのは確かだけど、「それがすべて」ということでもないと思う。
昨日とは、過去のもの。
明日とは、未知のもの。
今日の日は、儲けもの。
過去に起こった事象にいちいち制限を受けていたのでは、堅苦しくてやってらんねえや。
そんなの、監獄以外の何者でもない。
昨日とは、過去のもの。
過去の記憶などという、実際には存在していない、もはや幽霊のようなものに束縛されるなんて、理不尽すぎる。
わたしには「今」、なにが見えているだろうか。
否定の感情は結局、「白黒つけたがる」思考の癖から出てくるような気がしますね。
これは、こう。
あれは、ああ。
そんな四角四面の神経症的要求があると、そこから逸脱したものに「否定」というラベルを貼ってしまうんだと思います。
実際には、ほとんどのものごとは、あいまいです。なにも決まってないし。
ものすごく、ふわっとしている。
その状態をそのままに見ることができれば「肯定力」が身につくのかもしれませんね。
だってそもそも、なにも間違ってはいないのですもの。
みんなそれなりに、いっしょうけんめいにやっているのですもの。
すべてのことは、ただそこに「ある」だけ。
「正しい」「正しくない」なんて結局、てめえが勝手に決めたことじゃねえか。
じぶん勝手に決めたことで、じぶんから縛られに行くなんて、ただの変態だ。
白黒つけずに、全肯定しよう。