真の仏教徒は、仏教に執着しない。

仏教の教えというのは、たった一言でいえば「こだわるな」ということなんだと思います。

これはあらゆる宗派、小乗大乗を含めて、そうなんだと思う。

何事にも、こだわるな。手放せ。

 

だからほんとうの仏教徒というのは、仏教そのものにさえも、こだわらないのではないか。

ふとそう思ったのです。

この仏典が正しい、正しくない、どの仏典がいちばん良い、いちばんわるい。

あの宗派は正しく、この宗派はまちがっている。

大乗が正しくて、小乗は間違っている。

そういうことをギャンギャン言うことじたいが、もうすでに「仏教徒ではない」のではないか……。

仏教ということに多大な関心を寄せ、研究することじたいが、もう仏教ではないのではないか……。

 

そして、こうも思ったのです。

もっとも典型的な日本人こそが、真の仏教徒なのかもしれない。

一般的に、よく言われるのです。

日本人は仏教徒というが、実際には無宗教だ、と。

正月には神道の神社にお参りをし、お盆やお葬式では仏教のお寺で手をあわせ、結婚式ではキリスト教で誓いをたてる。

この「なんでもあり」の姿勢をして、とくに信心深い外国の方が、日本人はおかしいと言うわけです。

 

でも、そうじゃないのかもしれない。

むしろ、こういった日本人の「宗教への寛容さ」こそが仏教徒であるあかしなのではないか。

いいや、それはただの無関心なのだ、という人もいる。

しかしお釈迦様は言っている。

「無関心になれ」

 

ぼくの親父の田舎は四国の讃岐地方なのですが、そのあたりのお葬式は一風変わっていました。

どなたかが亡くなると、近所のお寺のお坊さんが、みんなお経を上げに来るのです。

浄土、日蓮、真言、天台。

ぜんぶのお寺からお坊さんが来てくれるので、お葬式はとても長くなります。

そして地域のかたがたは、このことについて何ら違和感を持っていません。

そんなものだ、と言う。

しかしどうしても思ってしまうのです。

「この家は結局、どこの宗派の檀家なんだ」

 

関係ないのですね。

何々宗ではなく、「仏教の檀家」なのです。

また、お寺や宗派への帰属よりも、地域や部落への帰属意識のほうが強いのかもしれません。

人が亡くなった、それならば、近くのお寺さんは、みんなで行って弔ってあげようと思う。

そこに宗派の垣根はないのです。

だからもしキリスト教の教会が近所にあったら、神父さんも来てくれるのかもしれません。

 

思うに、もしかすると、これこそが本来あるべき仏教の姿なのではないか、と思ったのです。

仏教の「背骨」は、こだわらないことと、寛容さと、他者への慈しみとゆるし。

だからいくらえらそうに、大乗だの寛容だの慈悲だの悟りだのいつくしみだのと言っていても、結局宗派同士で喧嘩のようなことをしていたのでは、背骨を抜かれた魚のようなものかもしれません。

自身が信じる教義に、強く頓着する。

これはそもそも、お釈迦様が禁止していた「こだわるな」に、あきらかに抵触してしまいます。

 

だから思ったのです。

「日本人であるぼくは、そのままで良かったのではないか」。

なにも一生懸命に仏典を読み漁り研究する必要も、とくになかったのではないか。

「どの宗派がいちばん正しいのか」を考える必要もなかった。

神道でも、仏教でも、キリスト教でもイスラム教でも、「ご縁があれば」手をあわせる。それでいい。

決してバカにしたりはしないが、かといって、どれか一宗にゾッコンにならなくても良い。

考えてみれば、神様や仏様が、そんなにけちくさい、けつの穴のせまい性格なはずがないですよね。

あれはだめ、これはだめ、それしたらバチあてるぞ、地獄に落とすぞ、殺してしまうぞ。

そんな狭量で強迫的な、むしろヒト以下の寛容さしか持たない存在が、天や彼岸にまします聖なる存在とは考えにくいですし、それを目指すというのもまたおかしな話です。

 

確かに思い返せば、何らかの宗教にしがみついている人のほうが、あまり幸せそうに見えないというのはあります。

御本人はいたって幸福である、わが宗祖こそ本物であると一切の疑いを持っておられないわけなのですが、ではなぜ、あんなに顔が暗いのか。

人と仲良くできなくて、ぎくしゃくするのだろうか。

まさに「こだわっている」からなのかも、しれませんよね。

とくにこれといった宗教は信じてませんね、まあ初詣くらいは行きますけど、そういう人のほうが、いろんな人と仲良くしていて、人生楽しそうな気もします。

 

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