「拘」という反応が、あるのだと思います。
なにかに、強くこだわってしまう。
そしてこの「拘」は、筋肉にあらわれる。
肩こり、背中のこり、腰のこり、あたまのこり。
こころの「拘」が肉体にあらわれることもあるし、ぎゃくに肉体の「拘」が、こころにあらわれることもある。
ような気がする。
あたまの固い人、頑固な人、かたくなな人、拒否感が強い人、プライドが高い人、好き嫌いが激しい人、思い込みが強い人。
そういう人は、からだの一部にコリがあって、からだの硬い人が多いようです。
ヨガでも、からだを曲げるときに「絶対に曲げるぞ! 達成するぞ! 理想的なカタチになるぞ!」と思いながらやっても、なかなか曲がらないです。
しかし「ごめんなさい」あるいは「ありがとうございます」と心の中で言いながらやると、思いのほか曲がる。
ごめんなさい、ありがとう、という気持ちは「こころの脱力」でもありますね。
こころの「拘」がすこし消えたから、からだの「拘」もすこし取れるのだと思います。
しかしこの「拘」、ちょっとむずかしいところもあります。
こころの「拘」を取り除くためには「こだわらない」ということがいちばんです。
そして「流される」ということも、効果があります。
ただ「こだわらない」というのは基本的には良いことだと思うのですが、「まったくこだわりがない」というのもまた、すこし問題があります。
「流される」ことが良いことでも、「流されてばかり」という生き方には問題があるのと同様です。
つまり「拘を捨てるということに、こだわる」と、他の問題がいっぱい出てきてしまう。
こだわりを、捨てることに、こだわる。
流されることに、こだわる。
「こだわりは捨てなくてはいけないっ! これだけは、譲れないっ!」
「ヒトは流されて生きるべきである! 絶対にだ!」
結局また「拘」じゃねえか。
こだわる・こだわらない、流される・流されない。
このことには、意外と難解な問題がありますね。
一筋縄ではいかない。
……と思っていたんだけれども。
じつは、こういうふうに「むずかしい問題だ」と考えること自体が「拘」の発現なのですよね。
「拘」があるから、「どっちが良いのか」などという、硬直した分化思想に陥る。
こだわる・こだわらない、流される・流されない。
「拘」がない状態でこれを捉えれば、なにひとつ矛盾などないのですよね。
一見相反しているようだけれど、ほんとうは合致している。
なんか禅問答みたいだけれども、つまりようするに「臨機応変」なのでしょうね。
「拘」を抱えている状態だと、「常に」「いつも」「必ず」「原則として」「本質的には」という、硬い概念をついベースにして、考えてしまう。
こころに何かが、固着しているからなのでしょうね。
でも実際には「常に」なんてありえないし、「必ず」もありえません。
原則も本質も、ほんとうはもともと存在なんかしていないです。だれかが「便宜的に」決めたことにすぎない。
ありえないもの、本来なかったことをベースに考えるから、二律背反のようなことで悩んでしまうのだと思いました。
だからむずかしく考えずに、
・調子のわるいときには、流されてみる。
・具合がわるいときには、こだわらないようにしてみる。
みたいなことで、十分なんだろうと思いました。
なんかイライラする、人生うまくいかないとか、パニック発作が出るとか、体調がおかしいとか。
そういう出来事を、イチイチ分解して虫眼鏡で覗き込んでばかりいても、けっきょくは余計に「拘」が生まれてしまうばかりで、ぜんぜん美味しくない。
具合がおかしいときは、だいたいよけいな「拘」があるから、この「拘」を取り除くために、しばらく世間に流されて生きてみる、逆らわずに流されてみる。
ふだんこだわっていたことを、いったんそのへんに捨ててみる。
からだの「拘」を、できるだけ取り除いてみる。
そして元気になってきたら、まだこだわって、流されないようになっても、べつに良いと思うのです。
それでまた具合がわるくなったら、また流されて、こだわりを捨ててみる。
ぐるぐるぐる、繰り返し。
「いつか完全に治す」とか、
「絶対に元に戻らないように」
そんなゴールはとくに決めずに、同じことを繰り返していけばいいのかな、と思いました。
というか、「ゴールを決める」ことこそが、いちばんの「拘」ですものね。
具合がわるいのは、うまくいかないのは、楽しくないのは、どこかに「拘」がある証拠。
良い状態に変化させ、その状態を固着させることを目指すよりも「変化流転する」ことを覚悟しているほうが、ラクでいいですわ。