やわらかいから、ひびかない。

「胸をひらく、のばす、ゆるめる」

「みぞおちをひらく、のばす、ゆるめる」

1日に数回これをするようになってから、呼吸が格段にラクになりました。

それにともなってパニック発作もほとんど出なくなり、自律神経失調様の不具合もずいぶん減りました。

 

先月2週間ほど風邪で寝込んでいらい、ちょっと動いたり立ち上がったりしただけで息切れや動悸がする、ふらつくということになってしまいました。

それに加えてパニック発作がしょちゅう出るし、外出が怖くなる日が格段に増えました。

このような感じになってしまったのも、どうやらみぞおちや胸が萎縮してしまっていたことも原因のひとつようでした。

 

外出が怖い。

そう感じているときに、よくじぶんの状態を観察してみると、やはりみぞおちや胸に力が入って萎縮しているのでした。

これは100%、そうなっています。

逆に、べつに外出が怖いとも思わない日は、みぞおちや胸のちからが抜けていて、ふわっと開いています。

これも100%、そうなっている。

 

不思議だったのです。

「パニック障害から外出恐怖になるのは、トラウマが原因だ」

みんなそう言うのですが、実際には「外出がとても怖いと感じる日」と「そうでもない日」が、半々ぐらいに混在しているのです。

もしトラウマが主たる原因だったとしたら、ぜんぜん怖いと思わない日があること自体、おかしいです。

記憶を失ったわけでもなし、しょっちゅう恐怖心が消えるというのはどう考えても理屈に合わないと思っていたのです。

 

つまり恐怖感というのは、筋緊張に支配されている可能性もあるのだと思います。

もちろん記憶そのものが重要なファクターであるのは間違いないでしょうが、

恐怖を感じた時に起こした身体反応が、逆に恐怖を惹起することもある」ように思うのです。

恐怖を感じたときは普通、胸・腹・横隔膜などの筋肉が、ぎゅっと固くなります。

なので、その反応を意図的に再現すれば、記憶も逆再生されるのかもしれないのです。

 

デスクワークが続き、背中のコリがひどくなると、つられて胸やみぞおちも硬化していきます。

そして、この状態は「恐怖反応」と、偶然ほぼ同じなのです。

怖いと感じたときと同じ場所が固くなり、萎縮している。

デスクワークで疲労したとき、異様に恐怖感が増すというのは、もしかするとこのメカニズムなのではないか。

 

親がひじょうに厳しい家で育った子供は、姿勢が悪くなることが多いです。

これは親から怒られるという恐怖に始終晒されることにより、胸やみぞおちが萎縮し、背中を丸める姿勢をとるようになるからです。

だらしないから姿勢が悪いというだけでなく、恐怖の感情もまた姿勢を悪化させるのです。

また、だらしなさが原因で姿勢が悪くなったとしても、そのせいでみぞおちや胸が萎縮し硬化するようになると、臆病になっていくのかもしれません。

心身一如、身体の反応を再現すれば、同じココロが再生させるようにできているのかもしれません。

 

さてそこで、以下のような運動をして、胸やみぞおちの筋肉を伸ばし、ゆるめることをすると、恐怖感がかなり低減することがわかりました。

 

恐怖とは、なにか。

それは結局、防御反応なのですね。

じぶんの大切な部分を、守ろうとする反応。

首をちぢめて頸動脈を守り、心臓を守るために体を丸め、胸や腹筋を硬直させる。

少しでも生存確率を高めようという試み。

 

だから恐怖そのものは、なにも悪いことではないのだと思います。

困るのは、「べつに恐怖する必要がないときにでも、恐怖しようとする」ところですね。

外出恐怖、電車恐怖はまさにそうです。

べつにそこまで危険なことをしているのではないし、むしろ安心しても良い事柄なのです。

戦地に赴くわけでもないのですから。

この「異常な / 大げさな反応経路」を是正していくことが、必要なのだと思います。

 

恐怖は、かたい。

恐怖反応というのは、縮み、固くなるのですね。

そしてこの「かたい」ということが、さらに恐怖を助長するようなのです。

 

やわらかいからこそ、刺激は分散される。

やわらかい綿を部屋の壁に貼れば、小さな音は消えます。

お皿をやわらかい布でくるめば、落としても割れません。

しかし硬い鉄板で部屋を囲えば、音は反射しまくって、小さな音でもとてもうるさくなる。

お皿を硬い石で挟んで落とせば、確実に割れます。

 

同じように、「かたい」ことが、その人の精神に無用に強い刺激を与えていることが考えられます。

「かたい」のは、一方の情報と他方の情報を、結合する役目があるのですね。

ふだんの生活で、偶然起こった物事にいちいち意味を感じてしまうというのも、恐怖反応の一種と思われます。

胸とみぞおちが萎縮していると、ぼくもそうなのですが、どうしてもそのような考え方になっていくのです。

占いなどがとても気になったり、偶然に意味を感じたりするようになる。

しかしいっぽう、胸とみぞおちが完全にゆるんでいると、そのような指向性はなくなります。

もともと関連のないはずの情報Aと情報Bを強引につなぐのは、ほかでもない「恐怖により硬化した身体」なのです。

身体に恐怖反応があると、関連しない情報群を結合させることが多くなる。

ささいな音や光に敏感、ちょっとしたことが気になる、これも多くは「恐怖反応」の再現かもしれません。

 

そもそも、「外出が怖い」ということ自体が、関連しない情報群の結合なのです。

外に出たら、必ずパニック発作を起こすわけではないのです。

外に出ているときに、たまたまパニック発作を何回か起こしただけ。

だから外出と発作には、必要充分な条件はないのです。

しかし、どうしてもそれを「結合」してしまう。

「学習」するからだ、という説が主流ですが、それならば、くり返しになりますが、どうもおかしなことがある。

「怖い日」「怖くない日」が、かなり乱雑に混在しているのです。

学習の結果ならば、毎日すべてが怖くないとおかしいです。

戦争や震災などのトラウマですと、これはほぼ100%の反応が出ます。

しかしパニックに伴う外出恐怖に関しては、100%どころか、もしかすると30%ぐらいの出現率かもしれないのです。

だから思うのです。

これは、身体の疑似恐怖反応が惹起した情報結合なのではないか。

疑似恐怖反応とは、みぞおちや胸、肩や首などの筋萎縮のことです。

恐怖を感じたときに萎縮硬化する筋肉群が、べつの理由で、たまたま萎縮硬化してしまった。

このことで、恐怖を仮想的に再現してしまっているのではないか。

筋肉は、恐怖を記録し、記憶する。

 

じっさいに、上記の「ラクダのポーズ」「イヌとネコのポーズ」を根気よくやっていくと、恐怖心が減ってくることがわかります。

また、このように言い聞かせることも効果がありました。

「みぞおちが、やわらかい。」

「おうかくまくが、やわらかい。」

「胃が、ゆるゆるに、やわらかい。」

「むねが、ゆるふわだ。」

「おなかが、ふわっふわだ。」

 

筋肉の、記録と記憶のリセット。

むねと、おなかがゆるむと、すこし恐怖が減るのです。

もちろん、ゆるんでいても、ふとしたことで「きゅっ」と戻ることは、当然あります。

人生そんなに、甘くない。

しかし根気よく「ゆるませる練習」を繰り返していけば、いずれコントロールすることもある程度可能になるのでは……と期待したりしています。

 

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