パニックとかウツとかは、真面目な人がなりやすいんだそうです。
物事を深刻に受け止めて、それに囚われてしまいがち。
そんな性格が、不安や恐怖を強化してしまうようです。
自分でいうのもなんだけど、ぼくはけっこう真面目なほうです。
なので、パニックなんかになったのかもしれません。
さて、そこでぼくはかつて「真面目をやめよう」と画策したこともあります。
でも性格なんていうものは、そうそう変えられるものでもありません。
一説によると性格というのは経験や考え方だけに基づくものではなく、遺伝子レベルで決まっているところもあるんだそうです。
だから「おれはあしたから、不真面目になるんだ! 柔軟になるんだ!」などと決心したところで、すぐになれるものでもないようです。
そもそもの話、「真面目」の対義語を「不真面目」とか「柔軟」と捉え、
そっちに移動しようと考えることじたいが「くそ真面目」であるともいえます。
一直線上の右辺と左辺という一次元の世界観が、どうも真面目くさい。かたい。
そういうふうに「逆にいこう、なろう」というのは、流れに棹さすわけで、やっぱり無理がある。
真面目を捨てて、不真面目になろう。
それは大変にもったいなく、絶対やめといたほうがいいかもしれませんね。
真面目というのは、一種の才能かもしれないのですし。
しかし、真面目であることには、苦痛が伴うのも確かです。
そのひとつの典型が、ウツやパニック障害という病気なのかもしれません。
病気を治すために、真面目をやめる。真面目をすてる。
そう思ったところで、真面目だからこそそのような一元的な解決策を模索するわけで、結局どうせ、できはしない。
ここは一発「引き算」ではなく「足し算」をするべきなのかもしれないですね。
真面目に、なにかを足す。
それが「シャレ」なのではないか、と思うのです。
洒落(シャレ)…漢字で「洒落」と書くのは、心がさっぱりして物事にこだわらないさまを意味する漢語「洒落(しゃらく)」に由来し、意味の上でも音の上でも似ているため、江戸時代の前期頃から、当て字として使われるようになった。 (語源由来辞典)
心がさっぱりして物事にこだわらないさま。
真面目のなにが、苦しいか。
それは、自他が決めたルールに「こだわりすぎてしまう」からです。がんじがらめになる。
真面目の「いいところ」を全部台無しにしてしまほどに、こだわりが強いこともある。それを「くそ真面目」という。
だから、真面目なひとが「心がさっぱりして物事にこだわらないさま」を少しでも持つことができたなら、天下無双となりえます。
不真面目な人がこれをやったなら、ただの迷惑者になってしまうかもしれません。
「シャレ」は、真面目なひとにこそ必要だし、向いている。
パニック発作なんて「シャレにならない」代表みたいなもんです。
生活に、シャレがなさすぎるのかもしれませんね。
シャレにならない、というよりも、シャレがない。
さらっと受け流すことが「できない」んじゃなくて、受け流そうと「していない」。
シャレは、「死のかなしみ」さえも受け流す可能性を秘めています。
中島らも氏の小説「寝ずの番」に、こんな話がありました。
ある落語家の師匠が入院中、忌の際に「そそが見たい」と言った。
「そそ」とは関西弁で女性器の隠語。
そこで弟子は自分の嫁に頼み込みパンツを脱がせて、師匠の顔の上に跨がらせた。
すると師匠は言った、
「そそが見たいんとちがう。【外】が見たい、と言うたんや」
そういって、師匠は息を引き取った。
落語に人生を捧げた師匠は、とうとう臨終にさえ「オチ」をつけたのでした。
この話を聞いても、師匠をかわいそうとは思えないし、弟子が不謹慎だ、バカだとも思えません。
思わず笑ってしまって、むしろ「すがすがしさ」さえ感じます。
不安と恐怖に、そのまま正直に対峙すると、必ず傷つき、壊れてしまう。
恐怖や不安を否定するのでもなく、抗うのでもなく、逃げるのでもなく、ふんわりと受け止め、包み込み、「変質」させてしまう。
それが、シャレという技巧なのかもしれません。
真面目な人には、不安と恐怖が多いものです。
だから真面目な人にこそ、シャレが必要なのかも。
脱力しよう。
リラックスしよう。
呼吸をどうこうしよう。
栄養バランスが。
神経が。
血流が。
疲労が。
骨格が。
そういうことをいちいち考えることじたいが、シャレっ気のカケラもない。
治るわけねーだろ。
根本的なところが、そのままなんだから!
恐怖と不安に、がぶり四つで挑んでいるんだから!
この世界には本来「一大事」なんて、全く存在していないんだそうです。
それを一大事かどうかを決めるのは、本人だから。
真面目な人には、一大事が多い。一大事が多いから、不安と恐怖も多い。
洒落っ気がないからですね。
真面目な人には、怖い印象があります。
本人が、怖がっているからですね。