ずいぶん前の放送だけど、huluで探偵ナイトスクープという番組を見ました。
ある回に「苦手なカエルを克服する女性」というのがありました。
女性は農家に嫁ぐことが決まっているんだけど、大のカエル嫌いなのです。
「キャ〜、やだ〜、コワイ〜」などという可愛いものではなく、カエルを見たら大絶叫にして大号泣、まさに阿鼻叫喚地獄、というほどです。
もはや「苦手」というレベルじゃなくて、一種の恐怖症なのだと思います。
そんな彼女は、意を決して「カエル恐怖を克服しよう!」と思い立つのでした。
「探偵さん」と一緒にけっこうな荒療治のようなこともして、最後には、なんとか触れるまでにはなったのでした。
そして彼女は言うのです。
「カエルって、けっこう可愛いかも・・・」
彼女はカエル恐怖症を克服したのでした。
ぼくには恐怖症があります。
電車と外出の、恐怖症。広義には「広場恐怖症」と言います。
パニック障害をこじらせると、多くの人がそうなるんだそうです。
あの激烈な発作を外出時や電車の中などで何度も何度も経験したせいで、その「場」じたいに、恐怖を抱くようになってしまうのですね。
さて、この広場恐怖症や不安神経症というのは、先の「カエルが苦手な女性」と、構造としては全く同じだなと思ったのです。
カエル恐怖症の彼女は、きっと子供の頃などに「カエルを怖い」と思うきっかけのようなことがあったんだと思います。
それが心の中で成長し、恐怖が不動のものになっていった。
パニック障害から広場恐怖に至るのも構造は同じです。
何度も強い発作を出先で繰り返したことで、屋外という場所そのももに恐怖が敷衍されていってしまった。
「また発作が起きたらどうしよう」
そういう予期不安によって、身動きがとれなくなってしまうのです。
対象がカエルか広場かというだけのことで、「不快な経験によって汎化された恐怖感情が生まれた」というストラクチャは、全く同じです。
カエルが怖いという人はあまり病気とは言われないけれど、電車が怖いという人は確実に病気といわれます。
しかしぼくは、思った。
「広場恐怖を病気というのは、おかしいのではないか」
構造は全く同じなのだから、広場恐怖や各種恐怖症についても、病気というレッテルを貼るのはすこし違う気がしたのです。
ぼくは個人的にカエルが大好きなので、カエルが怖いという彼女の気持ちは正直全然わかりません。
つぶらなまるいひとみ、小さな可愛い手足、笑っているような顔、きれいな色とデザイン。
ヒトにはなんの危害も加えず、雨の日にはケロケロと心地良い声でなき、ハエなどの害虫も食べてくれる。もはや人類の味方とさえ思う。
そしてカエルはすこしヒトになついてくれます。とても可愛い。
そんなカエルを怖いだなんておかしい・・・・・・というのは、もちろんぼくには言えません。
ぼくは、電車が怖いからです。
しかし、世の中のほとんどのひとは、電車なんか怖くない。
とにかく便利で、運賃も比較的安く、安全で、自動車に比べれば環境にもやさしいです。機械としても、カッコイイ。
そんな電車が怖いなんておかしい・・・・・・みんなから、そう言われる。
「怖い」という感情には、理屈などないのですよ。
怖いものは、怖い。
だからこそ、ぼくは先の彼女の勇気を、すばらしいことだと思うのです。
泣きながらでも、カエルと接するトレーニングを続けた。
そしてカエル嫌いの彼女は、結局カエル嫌いをなんとか克服しました。
方法が良かったんじゃないです。
「恐怖を乗り越えよう」と決心した彼女の心が、恐怖を突破したのです。
「病気だから・・・」
「神経の異常が・・・」
そういうことを考えている限り、思い込んでいる限りは、克服は絶対にできないのではないのか。
彼女のように、思い切って「挑む」行動が必要なのではないか。
彼女がカエル恐怖を克服できたということは、どんな恐怖症も克服できるのではないのか。
「わたしは異常であるという定義」
じつはこれこそが、さまざまな足かせになっている気がするのです。
2017年にミシガン大学が提唱した手法に「ジェネリック・ユー」というのがあるそうです。
不安や怒りを感じたときに、「だれでもそうだ」と自分に言い聞かせる方法で、そうすると不安や怒りなどの不快な感情が低減するというものです。
たとえば上司が無茶苦茶を言ってきてムカついたというときに、
「なんだばかやろう! 理不尽なこといいやがって! ちきしょうめ!」
と思えば、非常に腹が立ってきます。
しかし、こういうふうに言い聞かせてみる。
「上司というのはときに理不尽なもので、部下はよくその理不尽に振り回されるものだ」
つまり、「私自身のこと」だけでなく、もっと汎化させて考えるということです。
そう思うことで、怒りがかなり収まりやすくなるということ。
これはただの気の紛らわしというだけでなく、実際にかなり高い効果があるという有意な統計結果も出ているそうです。
このことは「私独自の問題である」と認識することが、必要以上にストレスを増大させるということを示していると思います。
つまり、私は異常である・人とは違うのである、そう認識すると、ストレスはいや増しに増し、不安が増強されていく。
イヤな思い出があったら、つい二の足を踏んでしまう。
考えて見れば、こんなことは人間として、至極当然といえます。
むしろ人間だからこそ、この反応が強いともいえます。
つらい失恋を経験したら、異性とのつきあいをためらってしまうというのは、よくあることです。
イヌに噛みつかれたら、もともとイヌ好きだったのに、その日からイヌが怖くなってしまったということも、ふつうにあります。
大震災を経験したら、だれでも多かれ少なかれ、ちょっとした揺れにビクっとするようになります。
こういうことのイチイチに「病気である」「異常である」などと定義していたら、全人類は全員神経症だということになってしまう。
だから、パニック発作を何十回と起こしたことで広場恐怖になってしまった、これは異常でもなんでもないのだと思います。
むしろ、正常な反応、人間らしい反応。
そうならないほうが、むしろ、おかしい。
だからここで重要なのは、さきの探偵ナイトスクープの女性のように、「怖くても、トライする」という気持ちなんだと思います。
怖いものは、怖いんです。
いくら安全ですよ、大丈夫ですよ、なにも起きませんよと言われたって、知るか。
理屈じゃないんだ。
理屈じゃないから、理屈で説き伏せられたって、恐怖なんか消えないのです。
・・・・・・理屈じゃない、ということは。
理屈を越えたことをするしかない
ということなんだと思います。
ああだからこう、ああしたらこうなる、こうだからこれ、そういった演繹型の思考を、一旦放棄するしかないのだと思います。
プールの飛び込みを怖がって泣きわめいている孫に、どこかのおばあちゃんが、やさしくこう言ったんだそうです。
勇気っていうのはね、怖くないからやるんじゃないの。
怖いけど、やるの。
それを、勇気というのよ。
怖いのが、わるいんじゃないんですね。
怖いのは、あたりまえ。
ましてや、怖いことを経験したことで不安を感じるのなら、なおさら当然。
だれだって、そうなる。
私だけじゃない。
ヒトという生き物は、いやなことがあったら予期不安を感じるように、できている。
だから、異常を治そうとしたって、ダメだ。
異常ではないんだもの。
弱い部分を強くする努力をしたって、ダメだ。
弱いからそうなっているんじゃ、ないんだもの。
いくら本を読んだって、考えたって、ダメだ。
理屈で怖いんじゃ、ないんだもの。
怖いけど、思い切って、踏み出そう。
最後の最後には、それしかないんだと思います。