「凝る人」は、やめていこうと思う。

リベラルなことは抜きにして、正直な話。

「どういう人に、なりたいか」。

逆にいえば、

「どういう人には、なりたくないか」。

 

パニック障害から外出恐怖になり、そのような逆境のおかげで努力して、現在は在宅ワークで食っていけるようになりました。

なので、外出する必要はほとんどありません。

しかしこのことが、かえって外出恐怖を改善するチャンスを失っているともいえます。

まさに、良いことの裏には、わることがあるものです。

 

それ以外にも、わりと捨て置けない問題があることもわかりました。

客観性を失い、自分の世界に没頭する機会が増えてしまうのです。

意外とこのことが、午前中のイライラにも関係しているような気がします。

脳の機能が、すこし低下してきているのではないか。

 

人間の脳には、大脳皮質という常識や自己制御を司る上等な部分があります。

筋肉と同じで、これも使わないと機能が低下していくんだそうです。

わがまま、自己中心的、客観性の欠如、ひとりよがり、非社会的。

そういった部分が、むき出しになってしまう。

 

人間の価値観というのは、社会的な価値観と、内的な価値観のバランスの上に成り立っています。

そのどちらかに大きく偏ってしまうのは、一種の弱体化といえるのだと思います。

カラダではなく、精神の弱体化。

 

そこで、しっかり思い出すことにしたのです。

ぼくは、どういう人間になりたくて、どういう人間になりたくないか。

そして、なりたい人間に向かって、もういちど足を踏み出そうと思うのです。

 

理性ある、余裕ある、常識的オトナ。

 

だれがなんといおうと、ぼくはやっぱり、これを目指したいのです。

一部のウェブサイトや、一部の知識人気取りが「常識なんか捨てろ」みたいなことを言いますが、あれは完全にまちがっていると思う。

やはり人間たるもの、常識は捨ててはなりません。

常識とは脳の上等な部分がしっかり機能しているからこそ、手に入れることができますし、行使することもできます。

それをみすみす捨ててしまうというのは怠惰以外のなにものでもありませんし、不和のもとです。

スティーブ・ジョブズほどの卓越した頭脳とカリスマを持ち合わせているのならまだしも、そのへんの有象無象の輩がこれを目指したとて、無名の変人で終わるのがオチだ。

常識を捨てることを喧しく言うひとは、一種の「中二病」です。

 

じぶんに「律」を設けることにしました。

じぶんがそっちに行っていないか、自己点検するためのリスト。

「そうなりたくない人間像」を、意識の表層に置いておこうと思います。

なりたくない人を、たった一言で言うと、こういうことになります。

 

凝る人には、なりたくない。

 

ぼくは、凝る人には、なりたくない。

凝るというのは執着するということでもあるし、何よりも自己内部への意識の退行を食い止める脳機能の低下だからです。

なかでも、以下のことは、強く意識しておこうと思う。

■ 宗教や神秘、スピリチュアルに凝るべからず
■ 創作物に凝るべからず
■ 健康法に凝るべからず
■ 仕事に凝るべからず
■ スポーツに凝るべからず

 

つまりようするに「オタクになるな」ということですね。

ぼくはオタクといわれる人じたいは、嫌いではありません。

むしろ、あれだけ情熱を傾けることができる対象を持っていて、うらやましいと思うし、それだけ没頭できる心の純粋さは素敵だと思います。

思うが、「じぶんがなりたいかどうか」は、別。

はっきり言う。

ぼくはオタクを差別しないが、ぼくはオタクにならない。

 

さいきん、危なかったのです。

10連休でずっと家にいたことと、自律神経の不具合から、アーユルヴェーダに「凝る」ところでした。

いえ、アーユルヴェーダがわるいとか、ウソだとか言っているのではありません。

これはこれで、勉強していこうとは思っています。

しかし、凝らないように、注意しようと思う。

 

どのようなことでもそうだけど、凝ると、ろくなことがないのです。

ヨガも、たまに気分転換に行っている間は良いけれど、その効果に感動し、凝ってヨガオタクになってしまったら、さまざまな弊害があります。

一番怖いのは、本人は至って正しいことを言っていると思っているが、第三者から見ればあきらかに行動がおかしくなっていることがある、ということ。

宗教や、スピリチュアルも、同じです。

主観性にベタ付きになり、客観性を失ったら、カルトになっていきます。

社会性を失っていくのです。

「正しいことは、だれがなんと言おうと、気にしなくて良い」などという、短絡的で、幼稚で、原理的で、不調和な行動をとるようになる。

ひとことでいえば、変人になっていく

 

変人は、だめだ。

 

だめなものは、だめなのです。

変人を差別するのではないです。

中途半端なリベラルふうのスタンスで、自分自身に変人を許容することが、よくない

自由だから、法律に触れていないから、人に迷惑をかけていないから、なにをしても良いということにはならないのです。

それを自分自身に許容してしまうということは、脳の機能の低下を許容することでもある。

 

いくら自由だからといって、お寺のご住職でもないのに普段から作務衣で生活するのは、おかしいです。

カンフースーツで生活するのも、おかしいです。

日本において、髪やヒゲを伸び放題にしておくのも、おかしいです。

 

何らかのイデオロギーがあり、そのイデオロギーに従えば、私の行動は正しい。

そういうふうに考えだしたら、かなり危険なんですよね。脳機能が低下している。

自分の考えを優先するあまり、社会を拒絶しはじめているのです。

変人の根底には、拒絶がある。

最大のポイントは、ここにある。

凝ることには、拒絶感が含まれているのです。

拒絶感がなく、ただ無知によってヘンなことをしているのなら、それはしょうがないです。

罪はない。

しかし「髪とヒゲにはエネルギーがあり、伸ばすと生命力がアップする」などと考えだしたときは、かなり注意すべきだと思う。

そういうことを言うひとを否定はしないが、ぼく自身は、そうはなりたくない。

 

常識に頑なになる、ということでもないです。

常識に縛られないが、常識は大事にする。

自分自身を、第三者の目で見る習慣を忘れない。

そういうことを、ちゃんと思い出そうと思います。

つまり、こういうことだ。

 

しっかりしろ!

 

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