春になってから、異様に強いソワソワ・イライラが出ていました。
「原因がないのにイライラ・ソワソワするなんて、おかしい」
そう思ってしまったら「自律神経失調症」しか、もう答えはなくなってしまうのですね。
しかしそんな「ゴミ箱病名」をつけて飲み込んでしまうまえに、することがあるのかもしれません。
じつは最近、イライラやソワソワはかなり減ってきています。
そのかわりに、ものすごく強いダルさを感じるようになりました。しんどい。
で、よく観察してみると、疲労がマシになっているのでイライラやソワソワが消えてきていることに気がついたのです。
いまぼくが感じているこの「強いダルさ」、じつはこれでも、だいぶマシになっている。
以前はこれよりももっと強烈な疲労があったのだと思います。
疲れすぎていて、イライラ、ソワソワが出ていた。
そのように感じます。
疲れていても、しなければならないことはあります。
とくに、仕事とか。
疲労感を「ぐっと押し返して」行動を起こすには、じつは怒りが必要なんですね。
怒りこそが、交感神経を興奮させてくれる特効薬だからです。
そのために、あえてイライラや焦燥感を引き出して、行動を起こしていたのですね。
しかし、疲労が徐々にマシになってくると……。
そうなるともう怒りを使わなくても良くなるので、イライラ、ソワソワも減っていきます。
しかしまだ、過渡期です。
イライラやソワソワを使わないせいで、むしろ以前よりも疲労感がぐっと増えたように錯覚するんですね。
感覚とは、あくまでも相対的なものです。
「原因がないのに、イライラする」
そんなことない。
原因は、あったんだ。それが、疲労だ。
疲労を無視して、押しのけて、気合とか根性とか辛抱とかいう妄想的なパワーだけで乗り越えるクセがつくと、疲労に気づきにくくなってしまうんですね。
ウツのひとなんかも、きっとこのメカニズムだと思います。
だってウツになる人って、まじめなんだもの。
まじめって、疲れるんですよ。
まじめになりたければ、人一倍、体力と精神力がないとなれません。
体力も精神力もないくせに、まじめだけを格好だけ実行すると、疲労でやられます。こころが病気します。
むかし、腕のいい鍼灸師さんにハリを打ってもらったことがあるんですよ。
そのときは腰痛を治すためだったんですが、あちこちハリを打ってもらったあと、ベッドから起き上がって愕然としました。
からだ、重っ!
まさに「全身が鉛のようだ」という表現がピッタリです。
まともに歩けないぐらい、全部が重い。
鍼灸師さんに伝えましたら、
「そうなんですよ。からだって、重いんです。それがあなたの『ほんとうの重さ』です」
ということでした。
つまり、ぼくが腰痛になったのは、いろいろ無理を重ねて全身の筋肉が慢性的に緊張してしまっていたんですね。
それをハリの技術でいったん全部、解除した。
そうしたら、びっくりするぐらい重く感じるようになったのでした。
長く続いていていた慢性的な心配事やストレスから開放されると、とたんにからだが重く感じ、しんどくて、だるくなることがあります。
これも先のハリの効果と、同じようなメカニズムなんだと思います。
緊張が取れてくると、異様なほどの疲労感を感じる。
それは悪化したということではなく「それがほんとうの、あなたの疲労だ」ということなんだと思います。
イライラする、ソワソワする。
それは「まだ気を抜いてはいけない」という心理的ブレーキが、神経を興奮させて疲労感を封じ込めるために、演出をしているんだと思います。
だからイライラやソワソワを消すためには、ブレーキを解除しないといけない。
しかしブレーキが解除されると、驚くほどの疲労感を感じるようになる。
ブレーキをはずして「ほんとうの疲労」を癒やしていかないといけない。
自律神経失調症。
便利のいい言葉だけに、注意が必要かもしれませんね。
原因不明のイライラやソワソワを、神経のせいにしてしまう可能性があります。
神経のせいではなく、単純にすごく疲れているだけの場合だってあると思います。
というか、おそらくは、そのほうが多いんじゃないか。
それなのに、ぜんぶ神経のせいにしていたら、いつまでたっても疲れはとれません。
神経はむしろ、正しく働いてくれていた。
まちがっていたのは、原因を神経のせいにしていた判断のほうだった可能性もあると思います。
まじめなひと、努力家なひと、よく気をつかうひとほど、ウツとかパニックとか神経症になりがちです。
これを、ぼうっとすなおに考えたら、すごくあたりまえなんですよね。
逆にふまじめで、努力しない、気も使わないひとって、全然疲れません。疲れるわけがないです。
まじめなひと、努力家なひと、よく気をつかうひとは、よく疲れるのですよ。
そして、そんな人にかぎって、疲れを感じにくいです。
そりゃそうですよね。
まじめと努力に必要なのは「神経の興奮」だからです。
神経が興奮すると、痛みも疲れも、感じなくなるのです。
これを古来より、ばかな日本人は「気合で治る」とか思い込んでしまったのです。
治ってないっつーの。ごまかしただけだっつーの。
そもそも気合ということばじたいも、間違って使ってるんですよね。
気合というのは「気を合わせる」ということだから、本来は物事に抵抗せず、対象の動きやエネルギーに自分を柔軟に合わせながら、双方のエネルギーをうまく合併してしまうということです。
逆らわずに、沿って、まわって、くっついて、ひとつのエネルギーにまとめあげてしまう。それが気合。
それなのに、いつのまにか気合という言葉は「無理をすること・逆らうこと・緊張すること・頑張ること」というふうに、意味が変わってしまいました。
たぶん、戦争教育のせいだと思いますね。
戦争はもう終わったんだから、そろそろ本来の意味に立ち返っていいんだと思います。
「疲れ」というものを敵対視して、それを隠し、張り倒し、押さえつけるなんていう、そんな思想がまだ残っているから「自律神経失調症」なんていうコトバで逃げてしまうんだと思います。
疲れとは、動物に与えられた天然の保全システムです。
無理をしないよう、自己を傷つけないよう、やりすぎないよう、行動に自動的に制限がかかる仕組み。天才的ですね。
この天賦の最重要保全装置を無視して、むりやり自分を動かそうとすることで、いわゆる神経症が生まれるんだと思います。
神経が壊れたんじゃなくて、自分で保全装置を壊したんですわ。
「ねばならぬ」の名のもとに。
具合が悪いのは、内なる神様からの「休め」っていうサイン。
「これぐらいで休むなんて、情けない」
会社とか学校とか親とか仕事とか家庭とかメンツとか、そんなただの被造物にすぎないもののいうことはすなおに聞くくせに、内なる神様の声は無視してる。
だから、バチがあたったんですわ。
神経のせいじゃないです。
神様の声に耳をかせない、かたくなな、じぶんのせいです。