戦う人は、さわやかである。

ぼくはさいきん、「戦う」っていうのはもうオワコンなんじゃないかな、とか考えていました。

みんな、仲良くすればいいのに。

戦うから勝ち負けができて、敗者が残酷な目にあう。

最初から戦わなければいいのだ。

みたいな。

 

それは確かにそうなんだけど、ふと気がついたことがあります。

一種の皮肉のようなことがあるのです。

 

戦う人はさわやかである。

戦いを避ける人は陰湿である。

 

という、この世の真理のようなこと。

 

たとえば体育会の学生って、だいたいみんな無邪気でサワヤカですよね。

でも勝敗がない文化系の学生というのは、陰湿で邪気が多いひとが案外多い。

大人でも、スポーツを習慣にしている人というのはあまり邪気がなく、さわやかな感じがあります。

しかし同じ運動でもヨガなどの勝敗のない平和的なエクササイズをしている人には、ひじょうに陰湿なひとも散見されます。

 

なぜか。

これはおそらく「社会主義と資本主義」のような、理想と現実の齟齬のようなことがあるのだと思います。

社会主義というのは、考え方としては非常に高度で理想的なもので、理論的には非の打ち所がないぐらいです。

なので社会主義は一時期多くの国に採用されましたが、残念ながらすべて崩壊してしまい、残っていても純粋な社会主義ではなく一部資本主義を採用した修正社会主義しか残っていません。

どうしてこうなったかというと、結局は「国民は人間だから」ということになるんだと思います。

社会主義の場合、すべての製品は国が生産することになり、労働者は均一の賃金で均一の労働を行います。

しかし残念ながら、そうなると競争原理が消えてしまい経済が停滞してしまう。

またシステムが平等であってたとしても、人間の欲が消えるわけでもありません。

些細な差異に対する嫉妬の感情や、人よりも多く利益を得たいという衝動を止めることはできず、結局ぐっちゃぐちゃになって終わる。

「机上の空論」の好例かもしれません。

 

戦いから逃げる人が陰湿になっていくのも、似たようなことなのかもしれません。

たしかに、理論的にいけば、戦いというものをなくしていくいほうが理想的です。

しかし残念ながら、わたしたちは「人間」なのですね。

天使でもなければ、お釈迦様でもない。

だから怒りや嫉妬といった感情を、完璧なまでに消滅させることはできないのです。

ようするに、

人間には、戦いたい本能がある。

口先では平和平和、平等平等言っていても、ハラの底には戦士と狩人の魂が残っている。

そしてこれは、消し去ることができません。いのちとつながっているから。

資本主義が多くの問題を孕みながらも、結局はうまくいっているのは、この「戦う本能」を遂行できるからかもしれませんね。

資本主義では、競争原理が必要です。勝者と敗者が必ず生まれるシステムでもあります。だから貧富の差も生まれる。

この側面だけを見ると、どうも不完全なシステムに見えてしかたがありません。

しかしクルっとひっくり返して裏側を見れば、「人間の本能に依拠したシステムである」ともいえるのです。

だから包括的には、社会主義よりも現実的な完成度が高いのかもしれないのですね。

社会主義は、その実行主体が「人間である」ということを忘れていた。

しかし資本主義は「人間しか」実行できないシステムでもあります。

 

汗を流すは禊(みそぎ)のみち

汗を惜しむは穢(けがれ)のみち

ぼくが好きなことばですが、これに似たことで、

戦を好むは禊のみち

戦を拒むは穢のみち

ということも成り立つのかな、と思いました。

 

「定義」が狂うと、どのようなプログラムもまともに動きません。

「わたしは人間である」という定義を間違えて、「わたしは天使である」などというふうにすると多くのバグが生まれます。

正確に「わたしは人間である」という定義をしておけば、無理のないバグの少ないプログラムが書ける。

人間は怒るし、怒りたい生き物である。

こうした人間の特性から考えた場合、この社会から「競争」「戦い」を消滅させてしまうと、大いなる歪が出てきてしまうと思うのです。

スポーツだって、戦いです。

商売だって、戦いです。

だからスポーツや商売を真剣にやっているひとは、「戦いたい」欲求が完全燃焼され、邪気がたまらず、サワヤカになっていくのだと思います。

しかしこれらを忌避し、戦いのない平和な隔離領域に逃げ込むと、欲求が完全に燃焼されず「邪気」になっていく。

よって陰湿的な性分が醸成されていくのかもしれません。

 

人間に生まれたのだから、しょうがない。

好きか嫌いかという、感情の表面的な部分だけを見てしまったり、理想という空論ばかりを眺めていると、戦うことや争うことが無駄なことに見えてくる。

ぼくじしん、戦うことはあまり好きではありません。

しかし現実と本質を見れば、だれしももれなく、巨大な「戦う本能」を抱えている。

これを利用し、消費して浄化するか。

押入れのなかに押し込んでしまうか。

この道の選択いかんによって、性格も幸福度も変わっていくのだと思います。

勝ったら、うれしい。

この「純粋な」感情を無視して抑え込んで生きていくのは、あまり賢い生き方とは思えません。

 

なにごとも、無理はいかんです。

人間なのだから、天地自然のことわりにしたがって、ときには戦うべきだ。

だから人類はスポーツやゲーム、商売という「平和的な戦い」を発明してきたのかもしれません。

これを否定するということは、自分自身を否定することと、同じことなのかもしれませんね。

無理がたたって、気が狂う。

戦うことがダメなんじゃなくて、「戦ってばかり」「勝敗にこだわりすぎて本質を見失う」ということが良くないだけですね。

 

 

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