更年期障害というのは、もしかしたら「メタモルフォーゼ(変身)」なのではないか。
老化である、衰退である、斜陽であるというのが、更年期障害の基本的な認識だと思います。
しかしこの観点はあくまで成長の定義を「純粋体力」とした場合です。
純粋な体力はたしかに、20歳前後がピークです。
しかし複雑な生命体にとっては、必ずしも体力だけが生きるチカラではありません。
知能や計算、打算、知識、経験、学習、柔軟性など、「より強く生きるためのちから」はたくさんあります。
だから成長ということを肉体的純粋体力の観点ではなく、総体としての「いきるちから」の観点から見れば、必ずしも純粋体力のピークが成長のピークとは合致しません。
肉体が大幅に成長するときに成長痛があるように「いきるちから」の成長のときにも、成長痛があるのかもしれません。
もしかするとそれが、更年期障害なのではないでしょうか。
純粋体力の観点からすれば更年期障害は確かに老化や異常ということになりますが、もうすこし広い「社会的生物の成長」という視点で見れば、これは「成長の最終段階」ともいえるかもしれません。
だからこそ、その苦しみも大きい。
更年期障害の症状がひどい人には、特徴があるそうです。
「老化することを拒む気持ちが強い人」つまり、若くありたいという気持ちが強いひとほど、更年期障害の症状は強く出るようです。
若くありたい —— この願望は、さきほどの定義からすると、ひじょうに不自然な指向性かもしれないのです。
若いことを良しとするのは、自らの成長を純粋体力、すなわち肉体的側面でのピークを「成長限界」と捉えていることにほかなりません。
人間は肉体という物質だけの存在ではないので、精神活動や社会的調和と防衛など複雑な側面での成長も必要です。
そしてそちらの成長は、死ぬまでつづく。
いつまでも若くありたいと強く願うのは、更年期障害という肉体と精神の「最終変態」を拒否しているということと同義です。
だからこそ、強い症状が出るのではないか。
最終変態の時期はもうすでに、来ている。
なのにいつまでも幼稚な指向性を持ち続けているために、変身しようという「生命のエネルギー」と、それを否定しようとする「意識のエネルギー」が不調和となり、ケンカをしているのではないでしょうか。
「こども信仰」のようなことがあります。
純粋、無垢、やさしさなどを良しとする信仰です。
気の弱さや繊細さ、臆病さ、無知であること、不器用であること、無欲であることなどを、むしろ良いことであるように思い、そしてそのようにあろうとさえする。
「まんが日本昔ばなし」に出てくるような哲学を信奉していて、無欲に利他的に、争わず生きていくことを最良と考える。
この指向性は残念ながら、「社会的生物としての成長」を考えたとき、おおいなる躓きになります。
幼稚なのです。
自然と社会の中で生きていくためには、気の弱さや繊細さ、臆病さ、無知、不器用、無欲、利他的、不戦、そんな甘っちょろいことを言っていては生きていけません。
そんなことを、のうのうと言えるのは、だれかに「守られている」からです。
生きていくのに必要で面倒なことを、ほかのだれかに任せてしまって、じぶんだけは「繊細でやさしい」ままであろうとする。
この指向性を更年期を迎えるまで持ち続けていると、膨大なハレーションが起きてしまうのだと思います。
肉体はもう成長の最終段階、最終変身の準備が整っているのに、精神が追いついていない。
「いいひと」
最後のメタモルフォーゼを迎えるにあたっては、これを完全に捨ててしまわないといけないのだと思います。
サナギが、その殻を脱ぎ捨てるように。
パニック障害やウツ、各種神経症にる人には「いいひと」が多いのだそうです。
やさしくて、気遣いができて、常識があり、争いを避け、調和を旨とし、謙譲の精神が強く、正義感があり、善悪を知り、善を好む。
思うに、このような特性を持つべきなのは「15歳ぐらいから25歳ぐらいまで」なのではないか。
「いいひと」というのは、もしかすると「第二次変態」に過ぎないのではないかと思うのです。
そうしないと、配偶者が見つからないからです。
しかし交接と繁殖の時期を過ぎ、一般的に子孫を得る時期となれば、つぎは第三次変態「最終メタモルフォーゼ」が待っている。
「守られる側」から「守る側」にクラスチェンジするのです。
いつまでも「守られる側」の美意識をしつこく持ち続けているせいで、社会との不調和が起きてしまう可能性もあると思うのです。
「守られる側」「繁殖する側」に求められるのは、やさしさ、気遣い、常識、和平、調和、謙譲、正義、善です。
「守る側」に求められるのは、強さ、冷酷さ、怒り、狡猾さ、機転、柔軟性、知恵、知識です。
年齢的にもう「守る側」になった。
だからすなおに、強さと冷酷さと怒りと狡猾さを身につけていくべきなのかもしれません。
突如として起こる、怒りや不安。
それはいま「そういう人になる練習」をしているのかもしれません。
いままで足りていなかったことを、自然学習している。
そんな気がするのですよね。
天地自然の摂理に逆らわず、ちゃんと「いやなやつ」になろう。
そう思いました。
いつまでも、自分の気の弱さ、優しさ、繊細さを擁護しているばあいではない。
「いやなやつになれない」のは、幼稚だからだ。
純粋さや甘っちょろい美意識にしがみついている時期は、とうの昔に終わった。
経年美化は、その傷や汚れもまた、美しさのひとつです。
いつまでも新品でいようとするその浅ましい気持ちへの罰が、更年期障害のつらい症状なのかもしれない。
じぶんに与えられた使命を果たそうとせず、守られる側で押し通ろうとする勇なき姿勢に、カラダちゃんが業を煮やしているんだ。
やなやつに、なろう。
そう思っただけで、なんか気分が楽になりますね。
もう、「ええやつ」を演じなくていい。
童話や詩に出てくるような、甘っちょろい切ない哲学なんか捨ててしまって、いっこうにかまわないんだ。
人間は、年取るほどに、強くなる。
もしそうでなければ、神様は設計ミスをしている。
しかしたぶん、設計は正しい。
まちがえているのは、いつまでも理想空間の妄想にしがみついて、いいひとを貫こうとする根性のほうかもしれませんね。