特別という幻想

たとえば、障害を持っている人がいるとする。

そういう人を特別視することは、あまり良くないといわれます。

差別につながりますからね。

いっぽうで、たとえばセレブや芸能人や有名人を特別視することは、あまり何も言われません。

これは、差別にはつながりにくいからですかね。

 

ふと思ったんだけど、この「特別視」っていうことじたいが、なんかいろいろなことをとややこしくしてるんじゃないかなあ。

まあ芸能人とかを特別視するというのは、罪はないし無邪気だから、べつに構わないような気がする。

でもよくよく考えたら、セレブだろうが金持ちだろうが社長だろうが芸能人だろうか有名人だろうが、ただのヒトだ。

なんにもできない赤ちゃんでうまれて、親とか保護者の世話になって大きくなってきた。

そのへんのひとと、なんにもかわらない。

なのに特別視してしまうのは「ある特定の分野で」「平均以上の結果を残した」からですね。

イチローさんがすごいのは確かだけど、彼だってただのヒトだし、野球という「特定の分野」から離れたらただのおじさんだ。

お金持ちだって「経済という特定の分野」で平均より多くの資産を持っているというだけで、経済という分野をはなれたら、ただのおじさん、おばさんだ。

特定の分野というのは、だれかがかってに決めた「概念」にすぎないものだから、どれもべつに絶対的なことでもないんですよね。

 

概念に過ぎないようなことに異様にこだわるから、ややこしい話になってるのかもしれない。

たとえばパニック障害とかの神経症だって、そんなようなことだ。

「自分を特別視してる」

ところがあるような気がするんですよね。

神経症の治りが遅いのは、こころのどこかで「わたしには【異常】という特別性がある」と信じ切っている可能性があるんですよね。

どうだかなあー。

ヒトって千差万別だから、その人を正常か異常か決めるなんて、原理的には無理なんですよね。

だから自分のことを異常だと決めつけるのは、かなりおかしなことだと思うんです。

実際に起こっているのは、感情の変化と肉体感覚の変化だけです。

いわば電気信号に過ぎないような、実体のないものに、ぼくは振り回されている。

 

ナンバーワンにならなくていい、オンリーワンでいい、だってみんな特別なんだから。

みたいな歌がよくあるけれど、「みんな特別」なら「特別は存在しない」ってことになります。

じつはこの種の歌って、ハナから理屈が破綻してるんだよな。

君は特別なんだから自信を持ちましょう、的なことを言いたいんだろうけど、歌の論理的帰結としては「てめえは特別でもなんぜもねえぜ、ただのモブだ」と言ってる。

あ、だからいい歌なのかな?

 

女の人に「特別」を好む傾向もあるような気がします。

誕生日だとか、結婚記念日だとか、アニバーサリーを大事にする人が多い。

そして「私を特別扱いしてほしい」と思う人も女性に多いらしい。

誕生日だろうが結婚記念日だろうが、ほんとうは「ある日」なんですけどね。

男の人にはそういう考えの人が多いから、よくケンカになるみたい。

この件に関して言えば、ぼくは男性のほうが正しいと思う。

「すてきな日」があるから「ひどい日」もできてしまうんですよね。

血糖値とおなじだ。

アゲアゲの素晴らしい日なんて、じつはあんまり褒めたもんじゃないです。

そんなもんがあるせいで、ほんとうはふつうの日なのに、くだらない、つまらない日に、無理やり降格されてしまう。

「日」がかわいそうだよねえ。

 

なにかを「特別」と定義する。

これってじつは、ヒト最大の弱点かもしれないですね。

AさんとBさんを別の人として認識するのは、「特別(Special)」ではなく「識別(Identify)」なんですね。

じぶんの巣がわからなくなったり、敵味方がわからなくなったら困るから、動物たちもみなこのIdentifyの機能は持っています。

Identifyは、さまざまな局面でとても重要です。

でもSpecialは、まったくもって重要ではありません。

Specialという定義には、根源的に「優劣」が存在しているんですね。

ものごとに、仮想的に優劣のタグを貼り付ける作業。

Identifyの場合は、ただ「IDをつける」だけで、そこに優劣や勝敗は一切関係していません。

 

根本的にヤバいのは、その貼り付けた仮想のタグは「すべからく主観的なものである」ということですよね。

結局は、じぶんの好き嫌いとか、じぶんにとって有利と思える「推察」がその根本にある。

つまり特別というのは一種の妄想にすぎないといえるのです。

客観性が乏しく、自己中心的な主観に大きく依存した価値判断を、ベースにしている。

そりゃあ、ややこしくなるわなあ。

根拠がないんだもの。

本人が根拠だと言っていることは、ぜんぶぜんぶ「主観」なんですよね。

めんどくせえなあ。

 

「特別」を捨ててみると、なんか気が楽になります。

エラい人に会うとき、緊張とか怖いとかあるけれど、それは「相手は特別である」と思っちゃってるからなんですよね。

そんなわけあるか。

ただのオッサンだわ。

ただのオッサンに会うのに、緊張する必要はないもんね。

もちろん無礼なことはダメだけど、逆に言えば無礼なことさえしなければ、なんの問題ないということだ。

 

「怖い」っていう感情は、ぜんぶ「特別」という価値基準から派生しているんですよね。

高いところが怖いのは、平地と比較して、特別だから。

尖ったものが怖いのは、まるいものと比較して、特別だから。

外出が怖いのは、家の中と比較して、特別だから。

ちがうだろ?

特別なんじゃない。ほんとは「違う」だけなんですよね。

高いところと、平地とは、「違う」。

尖ったものは、まるいものとは「違う」。

屋外は、屋内と「違う」。

ただ、それだけ。

Identifyだけに飽き足らず、Specializeをはじめると、そこに「意味」が発生する。

本来まったく存在していないかった意味が「特別視」によって生まれる。

そして特別視によって生まれた、かげろうのような「意味」に、ぼくたちは拘束されていく。

 

特別って、ホント邪魔なものをたくさん生むんだよね。

こんなもん、いらねえや。

 

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