きょうは思いっきり妄想というか、仮説です。
べつにちゃんとした論拠はありません。
宗教的なことと、精神・神経疾患には、有意な関係性があるのではないか。
そんなことを、ふと思うのです。
というのも、ぼくの身の回りでウツになった人は全員、親が創価学会でした。
本人はほとんど信仰していないのですが。
創価学会の家庭には精神疾患の患者が多い(とくに子ども)、という話もどこかで聞いたことがあります。
さて、ぼくの母親はかつて熱心な創価学会員でした。
ぼくはまだ子どもだったので、毎日「勤行」という、題目を仏壇に唱える修行のようなことをさせられていましたし、勉強会という名前の会合にも出席させられていました。
しかし中学生になったころ「おかしいぞ」と思い、受験勉強もそっちのけで図書館で勉強していったところ、数多くの矛盾点がわかってきました。
それを母親に提示したところ、「なるほど。ではこんど、勉強会で質問してみよう」ということになりました。
そして母は実際に会合でその質問をしたところ、周りからムチャクチャ怒られたんだそうです。
「ばか! そんなへんな質問をするな! 空気を読め!」
「そんなことを先生に質問すると、仏罰があたるぞ!」
母は質問の回答ではなく、その反応に、違和感を感じた。
(勉強会なのに、質問をしてなぜわるいのか)
母からその話を聞いて、ぼくは言いました。
「質問したぐらいで罰を与える仏様などいるものか。お釈迦様はどの仏典でも、弟子の質問によく答えてる。」
すると母も「そりゃそうだ」と納得し、これをきっかけに創価学会を脱退したのでした。
しかし母は創価学会は脱退したものの、日蓮正宗に鞍替えをしたにとどまりました。
いえ、べつに創価学会のことを悪しざまにいう趣旨ではありません。
そうではなく、純粋に「信仰」というものと精神疾患とに、何らかの関係性があるのではと思ったのです。
どのような宗教でもそうですが、教義には必ず「矛盾」があります。
そしてその矛盾については、様々な論で補完しようとします。
しかし補完に用いる論が増えれば増えるほど、その論同士で矛盾が生じはじめる。
矛盾はいつまでも消えないのです。
結局、それらの矛盾を一発で解決するのは「信仰」にほかなりません。
矛盾を思う自分自身に問題があると定義し、矛盾に目をつむり、その矛盾を理解できない自分は「信心という努力」が足りないという話になっていく。
ぼくは、この「矛盾を理解できない自分に問題がある」という定義そのものに、精神疾患の萌芽があるのではと疑うのです。
つまりは、自己肯定感の引き落としです。
この世には「真理」というものがあり、それを理解できない自分は浅はかである。
先生や師匠、聖職者などに比べて、自分は劣った存在である。
このように「私は足りない」という認知の歪みを持つことによって、精神疾患を患いやすくなるのではないか。
ウツなどの精神疾患を癒やすのに、まず最初に取り組むべきは「自己肯定感の向上」です。
かんたんにいえば、「じぶんはそんなに、わるくない」と思うようになること。
宗教というものは、構造的に「自己肯定感を引き落とす」部分がどうしてもあります。
だから「自己肯定感を向上する」という目的に限って言えば、宗教には永遠に一定の制限がかかりつづけるのです。
不幸は、自分の修行が足りないから。
そういう論点に立脚してしまうと、この世に起こるあらゆる災難が、まるで自分のせいのように感じていきます。
「不幸はすべて、わたしのせい」
こんなことを考えだしたら、もうりっぱな病気です。
んなわけあるもんか。ばかかお前は。
自分がわるいこともあれば、そうではないこともあります。
しかし宗教に限らず、ウツやパニックを患いやすいひとというのは、このような「自己責任」の感覚が強いひとが多いのですね。
仕事がうまくいかないのは、努力が足りないからだ。
病気になったのは、じぶんの管理能力が低いからだ、生活の乱れだ。
私が弱いからだ。
そんなふうに、考えがちです。
待て待て。
んなわけねーっつうの。
なんでもかんでも自分のせいにするのは、なんでもかんでも人のせいにするのと、大差ありません。
褒められたもんじゃないです。
「ここからここまでは、わたしのせい」「ここからここまでは、私の努力とは無関係」
このへんがパキっと見えているのが「正常」なのです。
がんばりすぎる性格、というのは、性格なんじゃなくて「ものの見方」が大きいと思います。
ある種、宗教的な認知のしかたと似ている。
スピリチュアル的なものごとに傾注するひとにも、この傾向があります。
自分の不遇は方角によるものである、何らかのエネルギーによるものである。
「原因と結果」について、一般とはかなり異なる独特の観点を持ちたがる傾向があります。
そして、その不可解なエネルギーは、努力や方法によってコントロールができると考えたがる。
ぼく自身を振り返っても、そうなのです。
神経の調子が非常にわるいと、宗教的なことやスピリチュアル的なことに傾注しがちになります。
しかしこれは「神頼み」でもないのです。
そうではなく、ものの考え方が宗教と親和性が高くなるという感じです。
つまりこれは、自己肯定感が下がっているのですね。
なんらかの石とか、形象とか、そんなものにエネルギーがあるのではと考えたり、磁気や電磁波などの見えないエネルギーに原因を求めたりする。
そうなってしまうのは、なにもアタマがおかしいとかではなくて、自己肯定感の極度の低下と考えたほうがいいと思うのです。
万一そのようなものにエネルギーがあったとしても、それはかなり微細なものです。
そのような微細なものに頼ろうと考えることじたいが、相当自己肯定感が落ちている証拠です。
そんなヘンなものに頼るくらいなら、人に相談したほうがマシです。
あるいはゆっくり寝たほうがマシ。
それに、相当の努力をしないとコントロールできないような不思議なエネルギーを扱うのなら、そんなに努力しなくても扱えるものを先に扱ったほうが早いです。
費用対効果への優先順位も、混乱しているのですね。
じっさい元気になってくると、ぼくはそういったスピ系・宗教系に、ほとんど関心を示さなくなります。
うそみたいに、関心がなくなる。
我が家で、とにかく神経の調子がわるいのが、ぼくと母親なのです。
父は、神経に関してはまったく問題ありません。
ぼくと母親だけが同様の神経的な症状が多いことについて、気がついたのです。
ぼくと母親は、一時期創価学会にいた。
父は一切関わりを持ったことがありません。
ぼくは中学生以降、形式的には脱退していますが、三つ子の魂百までといいます。
「四箇格言」について、明らかにこれを脱出できたと思えたのは、なんと40歳を超えてからでした。
ガキのころから仕込まれた話は、なかなか脱却できないのです。
また、最近は距離を置きつつありますが、母は創価学会から日蓮宗に鞍替えしています。
つまり日蓮宗系の教義に関係性が深い順番に、神経の調子がおかしいのです。
宗教のひとは、これを「ホウボウだ」とか言うかもしれません。
でもぼくは、そういうことではないと思います。
「宗教的な認知」と「通常の認知」が、ハレーションを起こし始めているのです。
世界の見え方が大きくかわって、めまいを起こしてる。
宗教にどっぷりはまり込んでいると、じつは世界が何も見えていないので、精神が不安定になることは少ないのです。
しかしそれから抜け出すと、本物の世界の論理に振り回される時期があります。
宗教はある意味「ほんものの世界」から、こころを守ってくれる側面があるのです。
これを剥がしてしまったら、この世界は苦しみが多いものに感じるようになる。
だから、どっちを選ぶかは本人次第なのだと思います。
死ぬまで空想の世界に遊び、現実に目をつむって、自己の幸福を追求するか。
空想を抜け出し、外の世界で実物と対峙するか。
どっちが上等で、どっちが下等とかはありません。
ただぼくは、後者を選んだ。
宗教は、お酒とよく似ています。
呑みはじめた年齢が若いほど、
呑んでいた期間が長いほど、
呑んだ量が多いほど、
やめたときの退薬症状が強い。
またどんな種類の宗教でも、酔うことはできます。
どんなお酒でも、酔うことができるように。
質が悪ければ、悪酔いする。
やめない、という選択肢ももちろんありますし、それがわるいわけでもありません。
それこそ、本人の自由です。