同情しない練習

ちょっとした刺激に敏感だったり、ヒトに妙に気をつかってしまったりする。

人の言うことすなおに信じてしまったり、人や場の影響を受けやすかったり。

元気のない人と一緒にいると元気がなくなったり、元気な人と一緒にいると元気になったり。

天気に気分や体調が左右されやすかったり、怖いニュースを必要以上に恐れたり。

 

こういう特性を「エンパス」ということもあるようです。

とにかく過敏で、いろんな刺激に影響を受けやすい。

だから妙に疲れやすかったり、傷つきやすかったりする。

 

ぼくにもそうした傾向があるな、と自覚しています。

でもぼくの場合は時間帯によるところが大きいなと思います。

朝から午前中にその傾向が強く、時間が経つにつれてそういう傾向が減っていきます。

また体調によっても大幅に変わります。

やはり風邪を引いて体力が落ちていたり、疲れて気が弱くなっているときは影響を受けやすくなります。

体調が良く体力もあるときは、全然影響を受けません。

つまり、

・アタマがハッキリ目覚めていない(ぼうっとしている)

・血行が良くない

そんなときにエンパスっぽい感じになることが多いです。

 

エンパスになってしまうのは、若い女性に多いそうです。

男性の場合は、やさしい性格のひとに多いらしい。

また日本人に多いという話もあります。

なので、もしかするとエンパスというのは「やさしさ」ということが核のひとつになっているような気がします。

エンパスのひとって、とにかく同情しちゃうらしいんですね。

「かわいそう」という気持ちが、人一倍強い。

だから震災とかのニュースを見るのが、タテマエじゃなくてほんとうに「辛い」そうです。

かわいそうでかわいそうで、泣いてしまう人もいるそうです。

完全に自分のことのように感じてしまう。

だからエンパスのひとって、基本「ええやつ」なんだと思います。

すくなくとも、わるいやつではなさそうです。

 

「同情」ということについて、これを「良いことである」とする風潮もあります。

しかしこの同情も度をすぎると、エンパスになってしまう。

ちょっとした刺激に意味を持たせてしまったり、空気を読みすぎて疲れてしまったり、人より他人を優先して損をしたり、他人事を自分のことと混同して過剰に傷ついてしまったり。

これは、一種の災難ともいえますね。

確かに一切の同情を持たない冷酷無比な人というのも寂しいですが、情けがリッチすぎるのも問題なのですねえ。

 

同情しない練習。

これがエンパスっぽい人には必要なんじゃないかな、と思ったりします。

やさしいことはいいことだけれど、それも度をすぎると人生がつらすぎます。

同情と冷酷は、ちょうど半々ぐらいを両方持っているのが良いのだと思います。

だから同情力、共感力が強いひとは、「冷酷さ」を少し持つことが良いのかもしれません。

冷酷という言葉がわるいなら、「クールになる」と言ってもいいかも。

 

同情しない練習は、いまはほぼ絶滅した「ヤンキー」が参考になるのでは、と思うのですよね。

というのも、いわゆる不良というのは、じつはエンパスっぽい子が多いのです。

 

ぼくは中高生のころよくヤンキーに絡まれましたが、一回も被害に会っていません。

その後おとなになってから、なぜか不良っぽい人に好かれる、というのがあります。

もしかすると、ぼくのなかのエンパスっぽい部分が、ヤンキーくんたちと波長が合うところがあるのかもしれません。

なかには完全にヤクザになって全身にイレズミを入れている子からも慕われてしまって、「兄さん!兄さん!」といってまちなかで駆け寄られたりもします。

「やめてくれ! おれもヤクザだと思われるだろ!」

とは可愛そうで言えないので(このへんがエンパスっぽいところかな)、まあまあ困ったりしたこともありました。

でもまあ、その子はほんとに「ええやつ」なので好きですし、話も面白いので邪険にはしませんでしたが。

 

なのでけっこう、元ヤンキー、現職チンピラの人と案外付き合いがあるのですけど、一般のイメージとちがって、彼らはかなり繊細でエンパシーなのです。

カンがするどく、ストレスを受けやすく、傷つきやすく、すなおです。

彼らが怒りっぽく見えるのは、繊細で傷つきやすいからなのです。

傷ついて、つい激昂して、ケンカになってしまうんですね。

はっきり言って「こころの純粋さ」という観点だけでいえば、ああいうヤンキーやチンピラの子のほうが、そのへんの草食系男子よりも圧倒的に高いです。

まるで岩清水のようなココロをしている。

 

彼らがチンピラ方面に行ってしまったのには、もちろん人それぞれいろいろな理由がありますが、共通点があります。

自分の繊細さを防御する技として怒号を覚えた

ということです。

つまり彼らは、じぶんの「弱さ」を人一倍自覚しているのです。

だからこそ、強がっている。

強いように見える服装、言動、装飾をコレクションして、それで防御するんですね。

人から怖がられることで、人を遠ざけ、自己防御をしているわけです。

そんな彼らだから「この人は、味方だ」と確信した瞬間、いままでの警戒を極端に解いて、まるで家族兄弟かのように接するようになります。

ぎゃくにじぶんたちを差別し、忌避し、逃げていこうとする人には、非常に攻撃的になります。

彼らが気を許すのは「ほかのひとと全く同等に扱ってくれた」ときです。

 

彼らは一様に、次の言葉をつかいます。

「関係ねえ」

ああ? カンケーねーだろ。

みたいな使い方ですね。

ぼくは、じつはこれが「ミソ」だと思うのです。

 

彼らは関係性をぶった切って、冷酷になろうとしている。

 

関係があるものでも、関係ないというのです。

そう、思おうとしているんだ。

じぶんと関係があると定義してしまうと、同情してしまうからです。

彼らはおそらく、じぶんの中から「同情」「やさしさ」を排除しようとしている。

それがじぶんの「弱さである」と自覚しているから。

卓越した直感力で、自分自身の最大の弱点を発見しているんですね。

だから「関係ない」ということばを多用するんだと思います。

まあ、ケンカしているときに「関係ある」「関係しようぜ」言うのも、ちょっとおかしいですけどね。

関係ある人、関係したい人をボッコボコにするとか、論理的矛盾があります。

 

エンパスのひとは、彼らを参考にできる部分もあるのでは、と思うのです。

なにもヤンキーやチンピラのようにケンカしまくる、という極端なことではなく、方法論だけを抽出する。

それは、

「関係ねえ」

と、こころのなかで言うこと。

どんなことにも、「カンケーねーだろ!」。

 

エンパスの人のなにが苦しいかと言うと、ほんとうに関係のないことにも、つい関係してしまうことです。

やさしさという弱さがある。同情してしまうんだ。

冷酷になれと言われたところで、それができれば苦労はしません。

だから「練習」が必要なんだと思います。

同情しない練習。

 

まあイヤなことを言ってしまえば、同情なんてクソの役にも立たないんですよね。

それどころか、ただの傲慢です。

ぼくはパニック発作持ちだけど、発作中にいくらやさしいひとが「かわいそうに……」とか同情してくれたところで、一切症状は治りません。

むしろ、邪魔だ。

この苦しみをわかりもしないで、かわいそうとか言うな、思うな。

ややこしい「やさしさ」なんかを持ち出して、べたべたとおせっかいするヒマがあるのなら「さっさとおれを一人にしろ」と思う。

重要なのは「行動」です。

そこに心情なんていらない。

同情なんて、被災地に千羽鶴を送りつけるような迷惑行為でもあります。

必要なのは同情じゃなく、「相手に必要なことを調べる能力」「相手がいま何を求めているかを考える推理力」です。

震災で困っているひとと同じような心境になって、いちいち傷ついて、怖がっていたって、被災者はなにひとつ助かりません。

そんな不毛なことをしているヒマがあるのなら、コンビニに走っていって1000円でも募金したほうが1000倍尊いです。

あるいは自粛とかしょうもないことをホザかずに、ぎゃくに飲み屋でさんざん遊んで散財して、経済を回すほうが立派です。

 

同情は、あたまの弱いやつがすることだ。

ぐらいに思って、

「関係ねえ!」

と叫んで、練習しよう。

 

 

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