「最高の休息法」という本を読んでいたら、面白いことが書いてありました。
真面目な人ほど、怒りやすい。
英語で真面目のことは「タスク・オリエンテッド(Task Oriented)」って言うみたいですね。
訳したら、「タスク指向性」ということです。
つまり「しなければならないことに囚われてしまう」人のことなので、なるほど真面目ですね。
で、この真面目なひとって、怒りやすいんだそうです。
そういえば、全然別件で「真面目なひとほど腹黒い」っていう論文を読んだこともあります。
また神経質な人ほど、あたまがわるいという論文もあったなあ。
眼の前の「ねばならぬ」にとらわれてしまって、「ヒトとして大切なこと」をすっかり忘れてしまうんですね。
その結果、本人に悪意は全くないんだけれども、自己中心的な思考に陥ってしまう。
「今はとにかくこれをしなくちゃならないんだから」、大切なこととか、本来の目的は後回しにしてしまう。
「今」ということと「眼の前」っていうことに、拘束されてしまうんですね。
真面目な人の、弱点ともいえる。
またこの本では、べつの実験も紹介されています。
「時間を指定されると、牧師でさえ人助けを忘れる」っていう。
牧師志望の学生たちを2つのグループに分けて、片方には「◯◯時までに教室へ行ってください」と伝える。
もう片方には、とくに時間指定はしない。
そして彼らが移動中に、わざと「困っている人」を仕込むのです。
すると、時間指定された牧師志望の学生は人助けをしない比率が高くなった。
本来、牧師として最も優先されるべき人助けを、ただ時間を指定されただけで忘れちゃうんですね。
まあこれは、そりゃそうだろうとは思います。
べつに牧師でなくたって、べつに急ぎでもなくプラプラしているだけならば、困った人がいれば一応助けてあげようと思うものです。
でも誰かと約束があったり、会社に遅刻しかけているとかなら、困っている人を助けようとはあまり思いません。
それどころじゃないから。
でも上記の実験のポイントは、そこじゃない。
タスクというものは、本来すべきことさえも凌駕してしまう可能性があるということを示唆していると思います。
ただのオッサンであるぼくが人助けをしなかったのではなく、人助けをメインミッションとしている牧師さんでもそうなってしまうという。
真面目な人ほど、ウツとかパニック障害になりやすいといいます。
これはどういうことかというと、「すぐにタスクに支配されてしまう」ということなんだと思います。
さきほどの牧師さんのように、今やらなければならないことや、締切のあるものごとを最優先にしてしまう。
これをして「真面目」というのだと思います。
ヒトとして、あるいは自分自身として、本来すべきことを忘れてしまう。
全体ではなく、降って湧いたタスクに征服されてしまうんですね。
だからこそ、真面目な人って、やさしくないんだと思います。
本質的には優しいひとだったとしても、タスクという魔物に取り憑かれやすい人だから、仕事を優先しちゃうんですね。
だから経営者としては真面目な人のほうが使い勝手はいいです。
べつにガミガミいわなくたって、勝手にタスクに拘束されに行ってくれますからね。
人助けよりも会社を助けてくれるから、ええやつです。会社からすれば。
でも、損ですよね。
ほんとうはやさしい、気のいい人かもしれないのに、タスクに取り憑かれやすいばっかりに、その長所を活かし切れずにいるかもしれない。
ほんとうはもっと多くの困った人を助けられる、菩薩様のようなことができる人なのかもしれないのに、タスクなどという目先の小さな仕事で毎日を潰してしまう。
で、結果的には「やさしさのない人」に見えてしまって、小人物にも見えてしまう。
あたまもすこし、わるそうに見える。
タスクに取り憑かれやすいという状況そのものが、脳疲労の可能性もあるかもしれませんね。
もう全体のことなんか見えなくて、「ねばならぬ」義務感しか見えなくなってしまうぐらい、疲れてる。
疲れているから、憑かれるんだなあ。タスクに。
この本はマインドフルネスの本だから、そういった脳疲労を癒やす方法として、マインドフルネスを推奨しています。
脳って、アイドリングだけで80%ぐらいエネルギーを使っちゃうから、ぼーっとしてたって疲れるんだそうです。
これを改善するのが、マインドフルネスという方法なのだそうです。
今まで読んだ瞑想の本は宗教色が強くて、あまりピンときませんでした。
ていうか以前はそういった宗教色の強いもののほうが、本物っぽいような気がしていたんですよね。
でももう最近は、そうは思わないです。
宗教色が強いものには、宗教というフィルターがかかってる。
瞑想系にはほぼ100%、仏教というフィルターがかかってるんですよね。
このフィルターを通じて物事を見ると、本質が見えなくなってしまうことのほうが多い。
とくに独学だと、よけいにその傾向が強くなります。
宗教のかおりがするものには、個人的にはもうお近づきにならないようにしようと思っています。
神秘とか不可思議なんていう、結局よくわからないことを四の五のいうヒマがあるのなら、わかりやすいことをちゃんと理解するほうが先だと思ったから。
それにオカルティックな物事をいろいろ言うひとに限って、本質も全体も見えていないんですよね。
そういうのが好きなひとってまじめなひとが多いから、たぶん「神秘というタスク」に取り憑かれやすいんだと思います。
神秘だってほんとうは方法論のひとつに過ぎないのに、それを中心テーマに据えてしまう。
そうなったら、もうなんにも見えなくなってしまうんだ。