「常識」というのを英訳すると「common sense(コモン・センス)」になります。
一般的な感覚、という感じですね。
日本語のほうには「識」が入っているから、常識というのはつい「知識」のことなんだと思いがちです。
たぶん、ちがうんでしょうね。
常識の「識」は、おそらく「認識」の「識」だと思う。
常識を捨てる、ということが、最近はなんだか良いことのような風潮があります。
常識にとらわれるのは不自由でありイノベーションの妨げになる、というのもあれば、常識に固執することは個性を殺してしまうからだ、というのもあります。
でもおそらく、これは常識を「知識」だと考えたときに、そうなるんだと思います。
常識が知識ではなく「感覚」だとしたら、どうだろう。
一般的な感覚。
ぼくは、これはものすごく大事なことだと思います。
知識のほうは、最悪べつになくたっていいけど、「感覚」のほうは絶対に必要だ。
ヘンなことをすると、ヘンになっていくからです。
ヘンなことを個性だというのは、ぼくはあまり正確ではないと思います。
人と違うことを、ヘンというのでもないから。
ヘンというのは、そもまま文字通り、ヘンなのです。
人と違うことは個性だけど、ヘンなのは個性じゃない。
ヘンなものごとに近づくと、「一般的な感覚」を失っていってしまうんですよね。
そうなると、ものの考え方、捉え方がどんどん主観的になっていって、客観性を失って、最終的にはものごとを誤って認識するようになる可能性が高いです。
ヘンなこと、とはなにか。
これはもう、そのままふつうに、ヘンだと一般的に思われていることで良いと思うんです。
宗教にどっぷりハマっている、スピリチュアル的なことにハマっている、そんなことはやっぱりヘンなのですね。
「じぶんはいま、ヘンなことをしているかどうか」
これが見えなくなってしまったら、もうかなり客観性を失ってしまっているんだと思います。
個性的であることと、主観に傾注しすぎてヘンであることを、混同してしまう。
自分自身をただしくコントロールするには、客観性が必須です。
いまじぶんは「一般的な感覚」と大きく乖離していないかどうか。
このあたりをたまにチェックすることは、非常に大切なことなんだと思います。
これを怠ると、ネットで流通しているおかしな理論などにいっぱつで飲み込まれるようになってしまうんですよね。
へんな宗教のようなものに取り込まれてしまうのも、この「ヘンかどうか」の客観センサーがバカになってしまっているときです。
これはたぶん、頭が良いかどうかは、あまり関係がないと思います。
むしろ勉強ができる人のほうが客観性を失いやすいところがあるかもしれません。
視野が狭いほうが、勉強はよくできますからね。
ものごとを「整合性」や「実証」だけで考えてしまいがちなひとは、客観性を失いやすい。
やっぱりどう考えても、ゾロ目の数字を見たときに「エンジェルナンバーが」とか言うのは、ヘンだと思うんですよね。
断捨離をしたら運勢がよくなる、っていうのもヘン。
枕の向きを変えたらカレシができるとかいうのも、ヘン。
呪文を唱えたら元気になれるかというのも、ヘン。
男のくせに、ヨガに異常に凝っているのもヘン。
占いは、ぜんぶヘン。
ひととしゃべるたびに、不自然に「ありがとう」を挟み込んでくるのもヘン。
ひとにいっしょうけんめい宗教をすすめてくるのも、ヘン。
どんなことにせよ、あまりにも深くのめりこんでいるのは、ヘン。
客観性を失い、「一般的な感覚」を喪失していることを、個性とか言い出す時点で、もう主観の世界で溺死寸前なんだ。
そういう人とつきあっていると影響されて、一般的な感覚を喪失しやすくなる。
そうなると高確率で「選択を間違う」。ぜんぶ主観で決めるからね。
ただしい選択ができるためには、日頃から「ヘンなものごと」から距離を置いておくことが大事なんだと思います。
ヘンなもんは、ヘンだ。
個性とかいう甘言にだまされないよう、気をつけていこうと思います。
個性的であることと、センスがないこととは、決して同一ではない。
センスのないひとほど、ヘンなほうに行ってしまう。
それはセンスとは「客観性」によって磨かれるものだからだと思います。