さっそく届いたので、一気に読んでしまいました。
目次で衝撃を受けたとおり、やっぱりいい本でした。
・食えなんだら食うな
・病なんて死ねば治る
・無報酬ほど大きな儲けはない
・ためにする禅なんて嘘だ
・ガキは大いに叩いてやれ
・社長は便所掃除をせよ
・自殺するなんて威張るな
・家事嫌いの女など叩き出せ
・若者に未来などあるものか
・犬のように食え
・地震ぐらいで驚くな
・死ねなんだら死ぬな
も、強烈ぅ〜。
それぞれの章で、それぞれ納得感がありました。
改めて、やっぱり禅の高僧といわれる人ってすごいなあと思いましたね。
この本の著者の関禅師も、「チベット旅行記」の河口慧海禅師も、厳格なのに、とにかくあかるいんです。グチグチ、ネチネチいう感じがなく、あっけらかんとしている。
すかっと明快、それこそ「喝!」っていう感じで、バッサリぶった切る感じ。
それでいて、とっても納得感があります。
やはり常人とは何かが違う感じがしますね。
禅師の修行時代のことも書かれていて、どんな修行をするのかけっこう詳細に書いてくれています。
だから禅の入門書、っていう位置づけでもけっこういいかもしれません。
やっぱり禅宗の修行って、むちゃくちゃ厳しいんですね。
こういうことを今でもやっていらっしゃる方がいるというのが、正直信じられないぐらいです。
入門を志願したのに、わざと断ったり、嫌味を言ったり、追い返そうとしたり。
そういうのを「越えて」はじめて入門できるなんて、厳しいなあ。
それに殆ど寝ずに修行したりで、ちょっと同じ人間とは思えないぐらいです。
食事だって肉は一切なし、量だってものすごく少ない。
それであんなにハツラツとしているなんて、ほんとに信じられないほどすごいなあと思います。
わりと衝撃的だったのは、禅というのは目的を持ってやるのはいけないのだそうです。
そういう禅は「野狐禅」といわれて、良くないといわれるそうです。
だから、今流行りのマインドフルネスだって、これは野狐禅の一種ということなのかもしれませんね。
集中力を高めたいとか、社員の健康維持をしたいとか、生産性を高めたいとか、そんな目的があるから。
だから思ったのは、
病人は禅をしてはいけない
ということです。
ぼくは、そう解釈した。
ぼくはパニック障害とか自律神経失調症を患っているけれど、これを治そうと思ってやる禅は「野狐禅」になってしまうからです。
思いっきり、目的がありますからね。
だからもういっぽうで、こうも思ったです。
禅というものには、意味がないのでなないか
何らかの病気を持っていたら、それを治したい、解消したいと考えるのは、たいへん自然なことです。
だから病人が禅を志すと、ほぼ100%まちがいなく、野狐禅になる。
治すために、禅をしてしまうんですよね。
目的を持ってしまう。
病気を患っていてもそれを達観して、べつに治らなくても良い、抗わずに受け入れるのだ。
病は死ねば治る、そう考えることができて、症状のいちいちに煩わされたりはしない。
禅をするとしても、病気平癒の目的は一切持たずに修行ができる。
……もしそういう人がいたとしたら、そのひとはもうすでにかなり高度な禅の境地に到達していると思います。
禅をする前から、もう禅の境地になっているんですよね。
いっぽう、病気を患ったり、何らかの悩みを抱えている人は、高い確率で野狐禅になってしまう。
しかし野狐禅のような禅だったら、やらないほうがいいというのです。
だったらもう、そもそも禅ってあんまり必要ないんでないの?
と思ってしまったんですよね。
ある程度悟りの境地に到達している人でないとできない修行なら、それは「エリート用」ともいえます。
禅というのは、ひじょうに高度な精神性をすでに持っている人が行うべきもので、そのへんの凡夫がやるものではない。
この本を読んで、そういった感想を持ちました。
ぼくたち凡夫は、禅の修行で悟りを得た高僧の「みことば」をいただいて、それに感銘するぐらいしか接点はないのかもしれません。
どのようにすれば悩みが消えるかではなく、「悩むな」という。
考えるな。気にするな。
その方法は、教えてくれない。
只管打坐、ただ座れ。
でも、目的を持って座るのは、野狐禅であるぞよ。
そんなことを言う。
ぼくは個人的には、話としてはなるほどな、とは思います。
でもそんなことが「ほんとうに」できる人が、この世にどれほどいるんだろうか。
みんな必死で生きてる。サボってるんじゃないんだ。
みんなそれぞれ、じぶんの地獄であがいてる。
それについて「おまえがわるい」だけで、それでいいのか?
仏教系の本や仏典をまじめに読むと、いつもこんな感想に至ってしまいます。
人間が、人間として、ふつうに悩み苦しむことを、意味がないという結論が多い。
それはそうかもしれない。
話を聞けば、そうかもしれないとは思う。
でも、実際には、その牢獄から出られないから困っているというのがあります。
よく笑い話のネタにされますが、ようするに↓の画像のようなことなんですよね。
ぼくはこれが一般的な人間の、正直なところなんじゃないかなあと思います。
パニック発作なんか、まさにコレなんですよね。
ひどい発作がでているとき、「これは15分もすれば必ず収まる」それは知ってます。
はっきり言って、どんなお医者さんよりも、高僧よりも、よく知ってる。
何千回もやってるんだ、知らないわけがないだろう。
上がらない雨はない、これはほんとうに、じゅうぶん、じゅうぶん承知なんです。
でも、今降ってるこの雨が、耐えられないのです。
落ち着けだの、気にするなだの、考えるなだの、受け入れろだの、のんびりしろだの。
そんな「事実」をいくら目の前でこれ見よがしピラピラされたって、なーんにも状況は解決しません。
今困っているひとに必要なのは、事実とか真理とかじゃない。
わるいけど、ことばじゃなくて傘持ってきてくんねえか。
高僧の話や仏典には、建前が多すぎるように思うんです。
もうほとんどファンタジーのように見えてしまうときもあります。
「そう言われれば、それは確かにそうなのかもしれない」が、実際わたしは、そのようにはなれない。
このジレンマが、どうしても解消できないんですよね。
「できる人」「できた人」の話はまるで、依存性のない即効性の麻薬みたいなもので、それを聞いたときには痛く感銘をうける。
でも時間が立つと、また同じことでグズグズ言い始める。
この本では、こまかいことをグズグズいうことについて、ばかやろうと一喝しています。
たとえばサラリーマンが、酒場で仲間同士集まって上司の愚痴をたれることなど。
そんなことをするぐらいなら、直接上司に文句を言え、という。
そう、それで合ってる。
なんにも間違ってない。
でも「できない」人がたくさんいる、っていうことを、すっかり忘れてるんじゃないのかなあ。
できる人は、禅の修行なんかしてなくたって、それぐらいなことはできるよ。
ぼくもどっちかっていうと、そっちのほうです。
陰口をぶっ叩くぐらいなら、愚痴の対象を直接ぶっ叩きにいく。
でも、それをたとえば、ぼくの娘にそれをやれっていったって、できないんですよね。
できないひとにそれをやれ、っていうのは、酷とか厳しいとかじゃなくて意味のないことなんです。
だから改めて、思いました。
正しく聞こえるものは、だいたい、役に立たたない。
っていうか、本なんか、まったく役に立たない。
これ系の本は、ほんとにそろそろ、卒業しようと思います。
読んだ直後の「得心感」はものすごいけど、現実にはクソの役にも立たん。
啓発本なんか、麻薬と一緒。
ノウハウ本が役に立ったためしはない。
健康本で健康になったものはいない。
りくつなんぞ、文字なんぞ、くそくらえじゃ。
そんなのよりも、小説のほうがまだ実効性が高いかもしれません。