「パーツ主義」みたいなのがあるんですよね。
骨盤が問題だ、とか。
いや足首に問題があるんだ、とか。
姿勢が問題なんだ、とか。
腸が、とか。
ふくらはぎがどう、とか。
首が、とか。
もちろん、それは確かにそうなんだと思います。
でもこういった考え方は、結局「だれにとって」有用なのか。
パーツ主義で原因を究明することで、いちばんトクをするのは、じつはお医者さんかもしれないんですよね。
日々多くの患者さんを相手にしていて、患者さん全員に、めくらめっぽうにホリスティックな治療行為をしていたんでは、手がまったく足りません。
だから最も可能性の高い部位をある程度確定させておくことは、医療行為という仕事の生産性アップのためには、とても大事なことだと思います。
だからこの考え方を、医療というものを基本から学んでいない素人のぼくたちが半端に学ぶと、勘違いをする可能性があるんですよね。
人体というかなり複雑で有機的なメカニズムを持ったシステムを、分断して捉えるようになる。
たとえば、ふくらはぎを揉んどけばいいんだ、みたいな。
たまたま本当にそこに重篤かつ主たる問題があった場合には「効く」けれど、そこが違った場合には、ぜんぜん効かない。
じゃあ首かな。
じゃあ腰だろうか。
いや、肩かな?
呼吸かなあ。
ビタミンとか、ミネラルかな?
いろんなところに、対象が飛び火していく。
で、いろんなところを「数撃ちゃあたる」的にやっていくんだけども、なにをやっても治らない。
おかしいなあ。
どうなっているんだ、ちきしょう!
「全身的な問題」が本質だった場合に「パーツ主義」でコトにあたると、高確率でこういうジレンマに陥ってしまうんですよね。
ぼくは最近、不具合の多くは「全身的な問題」なんじゃないかな、と思うようになってきました。
たとえば腰痛も、そうです。
腰をあっためたり、お尻の筋肉をストレッチしたり、腰をマッサージしたりしても、なぜかいっこうに良くならない。
むしろ、なんだか悪化したみたいになることもあるんです。
しかし意外なことで、ラジオ体操の第一・第二を連続で、1日に数回するようになると、腰痛がかなりマシになってくるんですよね。
とくにやった直後は、ほとんど痛みが消えているときもあります。
腰痛に限らず、肩こりや眼精疲労、自律神経の失調なども、同じような気がしています。
もしかしたらパニック障害だって、そうなのかもしれないです。
「問題は、ココだった!」
そういうふうに「核」を突き止めることができたら、ラクだし、安心です。
でもそれって、事実じゃなくてただの「希望」だったりするんですよね。
そうだったらいいなあ、みたいな。一種の希望的観測。
ある意味、思考が怠惰だともいえる。
マンガとかの観過ぎかな、と思ったりすることもあります。
ウルトラマン的な正義の味方が、強くてわるい怪獣を退治するときに、その「弱点」を攻撃したら一気にバクハツする。
ケンシロウ的なひとが、相手の「秘孔」をついたら、相手はバクハツする。
そんな描写は多いです。
でもじっさいには、山の中で走り回ってるイノシシでさえ、そんなことないからね。
あいつら、なかなか死なないそうなんですよね。
鉄砲で脳天を撃たれても、すぐには死なないやつもいるらしいです。
ウシも、トリも、そうらしい。
つまり動物というか、生命って、かなり「しぶとい」のだと思います。
言い方を変えれば、冗長性がある。
「ここが急所だ」みたいなのを、できるだけ分散するように設計されているんだと思います。
確かに心臓とか脳とか、そこが壊れたら終わり、みたいなのはあります。
でもそのへんが最大の急所だからこそ、メカニズムとして「負荷分散」をしているんじゃないかなと思うんですよね。
問題が起きたときも、その特異点をいつまでも一箇所に閉じ込めておかず、全身的に分散させていくんじゃないか。
人間の社会みたいに「おまえがわるいんだから、おまえだけがバツを受ければいいじゃん」的な、そんな責任集約型のシステムではないような。
「くるしみは、みんなでわければ、はんぶんこ」みたいなのが、デフォルトのような気がするんですよねー。
ていうか、そうしないと、すぐ死んじゃうから。
人体はじつは「連帯責任システム」かもしれない。
そういえばウツとかパニック障害になりやすい人って、「連帯責任」をものすごく毛嫌いする傾向があると思うんですよね。
「関係のない人に責任を負わせるのは、ひどいと思う」
まあ確かにそうなんだけど、でも連帯責任システムって、案外やさしい側面もあるんですよね。
重大な責任を、たった一人で背負うというのは、ひじょうにつらいです。
でもそれを複数人で負えば、すこしだけラクにはなります。
連帯責任について強い違和感を感じるということは、言い換えれば「関係のないひとの責任は絶対に負いたくない」という、ある種孤立し、分断した、自己中心的な存在認識をしているということです。
だから逆にいえば、連帯責任を強く拒むひとは、万一じぶんに落ち度があった場合には、じぶんひとりでその責任を負わなくてはいけない。だれも助けてはくれないのです。
そういった志向性は、失敗を過剰に恐れ、こころを硬直させる原因になりえます。
連帯責任を強く拒むと、責任から逃避することを重視し、ダイナミックな行動に抑制がかかりはじめる。
いいじゃねえか、仲間のアイツがしたことだ、今回は一緒に責任持ってやろうぜ。
そう思える人は、自身の失敗についても、分散的に認識できる可能性は高いです。
行動にも、抑制がかかりにくい。
多くの不具合は、原則「全身の問題」に、早急に変化していくのではないか。
たとえば頭が痛い、と感じたとき、たしかに頭に比較的多くの課題があるのかもしれないけど、それを感じたときにはすでに一足も二足も早く、問題はほかの部位でも分割して請け負ってしまっているのかもしれない。
そうなってくると、アタマやクビだけどうこうしたとしても、いっこうに良くならない、という可能性も出てきます。
まあ、あたりまえですけどね。
からだは、わるいところを「みんなでかばう」から。
だから同じく、こころが原因だ、とかいって、こころばっかりいじくっても、意味ないかもしれないんだよなあ。
こころの問題は、すいぶん前からもう半分以上、からだのあちこちが受け持ってしまっている可能性もあります。
不定愁訴って、結局はそういうことなんじゃないかな。
こころだけじゃなくて、からだのほうも全体に癒していかないと、きれいには治らないのかもしれない。
だからなにか不具合を感じたときは、「一回全身を動かす」っていうことが、けっこう早道かもしれませんね。
パニック障害やウツ、不安神経症に、ある一定の強度以上の運動が効果あるのも、そういうことなのかもしれません。
こころの問題のはずなのに、カラダをいっしょうけんめい動かしたら、なんか治っちゃった。
ふしぎ。
これはなにも不思議ではなく、人体の負荷分散システムの、代表的な事例かもしれませんね。
よくできているシステムこそ、じつは冗長性が豊かです。
責任の所在が明確で、一箇所に集中するような切り詰めた組織は、わりとすぐ潰れるんだよな。