仏教では、すべての苦しみは欲から生まれる、と説きます。
まあそれは確かにそうなんだろうけれども、だからといって欲を全部捨ててしまったらウツみたいになっちゃうよね。
生きる欲まで失ってしまう。
だから「欲」がダメなんじゃなくて、「よけいな欲」がダメなんだ、っていう話に展開していくことが多いです。
欲を少なくして、必要最低限の欲を持てばよいのだ。
しかしそうなるとこんどは、「どこからどこまでが、必要最低限の欲なのか」「よけいな欲とは、どれか」という疑問がうまれます。
そして結局、どちらにしても「欲は捨てるか、減らすかせねばならない」という方向性に行ってしまうことが多いです。
断捨離でも、最初は捨ててスッキリしたー、部屋も広くなって気持ちいいなー、っていう程度だったのに、いつのまにかそれが化膿して義務化してきて、「捨てなければならない」「よけいなものを買ってはいけない」という方向に転化していきます。
こうなってくると、「もともとの目的」を完全に喪失してしまうんですよね。
なぜ、欲を捨てたいとか、減らしたいとか思ったのか。
目的は「苦しみをなくすか、減らしたい」だったはずです。
なのにいつのまにか「捨てなければならない」っていう重たい拘束具を身につけてしまったおかげで、かえって苦しみが生まれたりする。
なにやっとんねん。
あほちゃうん?
さらには、「欲を捨てる」っていうことが「捨てたいという欲」に変わってしまったわけで、結局欲を捨てるどころか、増えてしまったんだ。だからダメなんだ、っていう話にもなります。
もうこうなってくると堂々巡りもいいところで、はっきり言って「欲を捨てる」という方針は、机上の空論に過ぎない「効力のないアドバイス」ということになってしまいます。
そーゆーことでは、ないのかもしれませんね。
上記の一連の変化を見てみると、ようするに「ねばならぬ」に変化した瞬間に、すべてが「おじゃん」になっているわけです。
いわゆる「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」に囚われた瞬間、苦しみを幾何級数的に生み出す。
だから、苦しみの根源は欲というよりも「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」である、というほうが現実的なのかもしれないです。
ほんとうにマジで欲を捨てることは非常に難しいけど、「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」から脱却することは、まだやれる可能性が高いから。
ぼくが様々な方法を10年以上もトライしつづけて、パニック障害や自律神経失調症が治ってないのは、おそらくここなんじゃないかな、と思うわけです。
たとえば、ヨガが効果的である、と聞いたとする。
そうしたらぼくは、根が真面目なこともあり、毎日必ず継続するということをします。
最初の頃は、スジがのびて気持ちええなあ、たまに深呼吸したらやっぱスッキリするねえ、という、ヨガならではの「いいところ」をしっかり堪能しているのですが、そのうち徐々に「ねばならぬ」に化膿していくのですね。
ヨガを、せねばならない。
菜食にして、肉は断つべきである。
飲酒はやめねばならない。
ものの見事に、「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」に、キレイにハマっていくのです。
いぜん「宗教と精神・神経疾患について」という記事を書きましたけど、宗教を強く信奉する家庭の子どもに精神・神経疾患が多いのも、じつはこの「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」が原因なのかもしれません。
カルト宗教と言ってわるければ、厳格な宗教、といっても良いですが、そのような宗教は規律が厳しいのです。
創価学会でも、お守りは絶対に買うな、ほかの宗派のお寺に参拝するな、初詣にもいくな、毎日題目をあげろ、などなど、「ねばならぬ」「してはならない」が目白押しです。
こんな厳格なルールを、まだわけもわからぬガキの頃から頭ごなしに押さえつけられていたら、「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」がどんどん強くなっていって当然といえます。
そのせいで、精神的な疾患を患いやすくなるのかもしれません。
「ねばならぬ思考」あるいは「べき思考」が強いと、ストレスが非常に強くなるのですね。
http://stresscare.e-rev.net/article/learn/article5.html
上記でも書かれていますが、「ねばならぬ」は、不満と不安を上手に増やしてくれるのです。
自分は常に完璧でなければならない→「失敗したら終わりだ!」
他人は自分の意見を聞き入れなければならない→「こんな環境では自分は受け入れられない」
絶対に競争に勝たなければならない→「負けたら這い上がれない、どうしよう!」
周囲の環境は自分にとって都合よくあらねばならない→「この職場は耐えられない」
自分は理想どおりでなければならない→「自分は何て価値のない人間なんだ」
「私はストレスに弱くて・・・」
よくいうけど、そんな人はストレスに弱いんじゃなくて「ねばならぬ」がヒトよりもちょっと多すぎるだけなのかもしれないですね。
真面目な人こそウツとかパニック障害になりやすいんだそうですけど、この「真面目」って「ねばならぬが多い」ってことに、ほかなりません。
神経がおかしいとか、欲が多いとかいう前に、もしかすると、こっちのほうがいちばんの原因かもしれませんよね。
どうしたら、「ネバネバ・ベキベキ」から脱出することができるんだろうか。
おそらく、
この世には「ねばならない・べきである」ということは、本来なにひとつ存在していない
ということを知って、
すべての「べき」「ねばならない」を、「…のほうがよい」に置き換える作業をする
っていうことになるんだと思います。
極端な話、人殺しだって、そうですよね。
「人を殺してはいけない」と言っているのは、じつは法律です。
だれかが決めたルールにすぎません。
法律が制定される前は、ヒトはヒトをしょっちゅう殺していました。
だからべつに「絶対」ではなくて「そういうことにした」っていう、便宜上のルールにすぎない。
だから正確にいえば「殺してはならない」のではなく「殺さないほうが良い」のです。
こんなことを言うとなんだか危険思想みたいな感じがするけれど、でも残念ながら「事実」はそうです。
それに、ふつうに生活をしていれば、人を意図的に殺さないといけないようなことはまず起きません。
よくある殺人事件だって、結局は「ねばならぬ」に支配されてしまった人がやっているのです。
恨みの構造だって、けっきょくは相手にたいして「わたしが期待する行動をするべきだった」という定義が潜在しています。
過去キリスト教は神の名のもとに大量の殺戮を行いましたが、これだって結局は「異教徒は排除せねばならぬ」という定義が根本です。
オウム真理教だってそう。
戦争だってそうです。
「ねばならぬ」のせいで、人を大量に殺した。
じつは、人が人を殺すのは、強すぎる「ねばならぬ」のせいであることが、ほとんどなんですよね。
だから、毎日運動をせねばならない、のでは、ないのですね。
「毎日運動をしたほうがよい」なのです。
「毎日運動すべきである」って定義してしまったら、「運動をしなかった日」「運動を忘れた日」は「わるい日」「だめな日」になり、それをしてしまった自分は「だめな自分」になって、芋づる式にわるい意味の追加がされていきます。
こんなもん、気が狂うほうが普通じゃ。
だからネバネバ・ベキベキのひとって、じつは「ストレスに弱い」どころか「ストレスに非常に強い」と思うんですよね。
こんなことを毎日継続していって、生きていられるのですから。
この世は「したほうがマシ」だけで、できている。
この世には「ねばならぬ」は、元からまったく存在していない。
そう考えるだけでも、すこしだけ、気が楽になりますね。
会社なんか、やめたってかまわんし、友達を失ったってかまわん。
もちろん、仕事はしたほうがいいし、友達は多いほうがいいです。
でも「ねばならぬ」ってことは、べつにないんですよね。
「…のほうがマシ」を「ねばならぬ」に翻訳してしまった瞬間に、苦しみが大量にうまれる。
ここで注意しないといけないのは、真面目な人こそ、
「ねばならぬ」を「捨てねばばならぬ」
になってしまうことですね。
あぶねえなあ。
「ねばならぬ」も「捨てたほうがよい」だけなんですけどね。