禅とは「ながら」をやめること、なのではないか

もしかすると、禅とは「ながら」を、究極的にやめることなんじゃないか。

っていうことを、ひらめいたのでした。

 

禅では「作務」といって、家事や農作業のような労働をとても重視しています。

すわってやるあの座禅や、読経よりも、ずっとずっと大切である、ともされています。

この作務、もちろん「ながら」なんか絶対に許されないんですよね。

音楽を聞きながらとか、スマホ見ながらとか、もってのほかです。

床掃除をするにしても、ぞうきんをしぼるにしても、メシを食うにしても、その一挙手一投足に全身全霊を傾けて行う。

 

座禅だって、完全にそうです。

テレビみながらやっていい座禅、なんかありえません。

なんとなれば、考え事さえやめろという。

「なにかを考えながら座禅をしてはいけない」っていうのです。

これはたいへん、難しいことですが。

 

しかし「禅とは【ながら】を全面的にやめることである」という視点からみれば、すべてがなるほど!と思えるのです。

禅の修行というと、ものすごく厳しい、というイメージがあります。

イメージっていうか、ほんとうに厳しいらしいですが。

しかし、なぜ禅の修行がそれほどまでに厳しいかというと、「ながら」をやめさせるためである、とも考えられます。

そもそも座禅じたいが、「ながら排除」の訓練のようにも見えるんですよね。

意識はせいぜい、じぶんの呼吸の観察だけに用いる。

「呼吸を数えながら、夕飯のことを考える」のはダメだというのです。

ながら排除の、徹底的な訓練なんじゃないか。

 

そもそも「ながら」を行うことは、ひじょうに脳を疲労させるんだそうです。

マルチタスクに神経をつかうため、思った以上に神経を酷使してしまう。

「ながら」の癖が強いと、眠って夢を見ているときでさえ「ながら」をやってしまうのですね。

夢は生活の延長でもあるから、生活のクセもそのまま再現されてしまうのです。

だから、「ながら癖」があるかぎり、眠っているとしてもじつは神経が休めていない、という可能性もあります。

坐禅中に眠ってしまうのを禁止されるのは、「ながら癖」をやめられていないのに眠ってしまったらトレーニングにならないし、なにより脳の疲労がとれないから、ということなのかもしれません。

 

この視点から見れば、禅というのは決して前時代的に厳しいわけではなく、むしろ「ものすごくやさしい」可能性もあるな、と思ったのです。

できるだけ脳のリソースを無駄遣いしないよう、根強い疲労感を癒やしてあげるよう、脳疲労を癒やしてあげるように、ていねいに「道付け」をしてくれているのかもしれません。

神経過敏なのも、些細なことにオドオドしてしまうのも、結局は日常的なマルチタスクによる脳神経の疲労で神経の興奮がおさまらないから、というのもあります。

禅をつづけていくと不動心が養われ、些細なことでは動じなくなるというのは、じつは「きつい修行を乗り越えたから悟った」とかではなくて、むしろ真逆で、「脳にやさしい生活をつづけて脳疲労が完全に癒やされたから」という可能性もあるんじゃないかな、と思いました。

 

ながらを、やめる。

これは、ものすごく大事なことかもしれないですね。

メシ食いながらテレビや動画を見るとか、仕事しながら音楽聞くとか、スマホいじりながら映画見るとか、そういうのは「だらしない」とかじゃなくて「無理させてる」っていうことなのかもしれないです。

楽に見えることは、じつはしんどくて、しんどく見えることは、じつは楽。

そんなことは、よくありますね。

「ながら」もじつは、その一種なのかもしれません。

気が紛れているように見えるけど、じつは徹底的に神経をイジめているだけ、なのかもしれません。

 

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