【読書感想文】禅マインド ビギナーズ・マインド

故スティーブ・ジョブズ氏も愛読していたという、鈴木俊隆氏著「禅マインド ビギナーズ・マインド」を読んでみました。

 

最近ぼくはもう「外人」になってしまったんだなあ、とつくづく思います。

東洋思想のあれこれについて、昔からある「日本人が日本人向けに書いた本」では、もう理解ができなくなってしまっているようなのです。

これは「老子」についてもそうでした。

原文はもちろんのこと、親父が持っていた老子の解説本を読んでも、「へえ、そういうものかな」程度の感覚しかなくて、そんなに素晴らしいことが書いてあるなんてひとっつも思いませんでした。

しかしたまたま読んでみた「タオ」という本で、ぼくは一気に「老子ファン」になってしまいました。

老子ってすごく大事なことを言っているなあ! すごいなあ!

と、本心から感動したものです。

いったん英訳されたものを日本語に再翻訳したもののほうが、腑に落ちやすいのです。

 

「禅マインド ビギナーズ・マインド」も、もとはアメリカで出版されたものを、日本語に訳してくれたものです。

それはもう、むちゃくちゃわかりやすいのです。

禅に関する本はかなり読みましたが、正直いってあまりピンとこないところや、全然意味がわからないところもありました。

ただ禅には何か非常に惹かれるというか、波長が合うようなところは感じていました。

この本を読んで、何か引っかかっていたところがスッと通ったり、新たに「そういうことなのか!」と知ったことがたくさんありました。

日本人が日本人向けに書いた仏教本よりも、ダライ・ラマがアメリカ人向けにやった公演を聞いたほうが、ひじょうに理解しやすかったというのもあります。

考えてみれば、生まれたときから洋服を着て、アメリカやイギリスの音楽や映画を楽しみ、欧米型システムの教育を受けて育ってきたのだから、中身はアメリカ人に近いところもあるのかもしれません。

神戸はまた外人も多かったので、よけいにその傾向が強いのかもしれませんが。

とにかくもう「逆輸入」でないと、意味がわからなくなってしまっているところがあります。

 

感銘を受けたり印象に残ったところは数多いのですが、なによりいちばんの収穫は「ぼくは禅について、あまりに堅苦しく考えすぎていた」ということを発見できたことです。

禅というと、不退転の決意、とか、勇猛精進、とか、決死の覚悟、みたいな、血圧の高い怒涛のような精神性が必要だみたいなイメージがどうしてもありました。

しかしこの本によると、そもそもの話として、

目的を持って行う禅は本質的ではない

のだそうです。

だから不退転の決意とか勇猛精進とか、そんなふうな「達成意欲」やハイテンションの気分で挑むのではなく「ただ、ただ、すわる」ということがとても大切だ、ということなんだそうです。

なのでぼくが日頃行っていた座禅というのは、ちょっと緊張しすぎだったかもしれないな、と反省をしたのでした。

しかし……。

ぼくはこのことについては、明治時代の禅師の著作「食えなんだら食うな」で、たしかに読んでいたです。目的を持って行う禅は「野狐禅」であり、決して行うべからざるものである、とちゃんと書かれていました。

でもぼくは、それを読んだときには、こう思ったのです。

じゃあ意味ねえじゃん

と。

というのも、ぼくにはパニック障害や自律神経失調症があって、それを治そうという目的は、どうしても持ってしまうのです。

病人に治りたいという気持ちを持つなというのは、本来実行不能なことだから、ぼくは「病人は座禅をすべきではない」と解釈しました。

目的を持つ禅が野狐禅であり、禁忌に該当するのであれば、病人どころか、一般の凡夫にはもう無理な修行である、とも思いました。

そうか、禅はやっぱりエリート用のもので、ぼくのような半端ものが手を出して良いものではないのだな、と解釈したのでした。

 

しかしこの本を読むと、そういうことではないようなのです。

「目的を持ってはならない」というよりも「ただ、すわる」ということが大切だ、ということを言っている。そして、座禅を続けていて飽きたり、やる気がなくなったり、つらく感じるようになってきたら、それは警告である、と言っているのです。

なんの警告かというと「目的を持ち始めている」という警告だ、というのです。

だから飽きや疲労などを感じたときは「じぶんのこころに目的が生まれてしまっている」ということに気づき、初心に帰るチャンスである、と書かれています。

つまり、「ダメなことはするな」と言っているのではないのです。

「ダメな方向に向かいはじめたことに、気づくこともまた禅である。いつまでも初心でいることが禅なのである」と言っているのですね。

 

この部分で感じたところが、今まで読んださまざま禅の本と、決定的に違うところでした。

禅の本には、なぜか厳格厳粛な雰囲気がつきまとっていて、緊張感を高める部分があります。

その理由が、やっとわかりました。

 

漢字のせいです。

 

漢字って、コワイんですよ。

結跏趺坐、というのからして、もうモノモノしいです。

しかし英語では、これを「フル・ロータス・ポーズ」という。はすのはなの、座り方。

法界定印は「コズミック・ムードラ」という。宇宙のしるし、という意味ですね。

こうなってくると、とたんに禅の用語がひじょうに親しみやすい、身近なものに感じるのです。

禅の本につきまとう、あの峻厳で近寄りがたく、殺されかねない気迫のような雰囲気の正体は、じつは「漢字の禅用語」だったのです。

正法眼蔵、とか、普勧坐禅儀、とか、「こわいお坊さんが棒持ってドツきにくる!」っていうイメージありませんか。

この雰囲気にのまれて、つい「禅ヲ志スモノハスヘカラク決死ノ覚悟モテ勇猛精進スヘシ」的、軍事的賭命作戦行動的な決意を強要されてしまっていたのだと思います。

言っていることはまったく同じなのに、受ける印象がぜんぜんちがう。

 

もしかしたら、案外こういうところが「日本語の弱点」なのかもしれないですね。

旧来の用語をそのままつかうと、どうしてもその時代背景までが背後霊のようにつきまとい、よけいな心象まで持たせてしまう。

だから「いっかい海外へ行って」ロンダリングされた本は、そのへんの雑物がとれて、意味がストレートになるのかもしれません。

 

そういえば村上春樹氏は小説をいちど英語で書いて、それを再度日本語に訳す、ということもしているそうです。

村上春樹氏の小説がとても読みやすく感じたり、情景の心象が強いのには、案外こういうことも関係しているのかもしれませんね。

日本語をいったんほかの言語に置き換えることで、むしろコトバの意味が研ぎ澄まされていく。

そんなことも、案外あるのかもしれませんねえ。

 

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