ぼくの時計を、とりもどそう。

以前から不思議なことがあったんです。

ぼくはパニック障害から外出恐怖症みたいになってしまったんだけど、外出が全部ダメ、っていうことではないんです。

たとえば、何の目的もなく、ただフラフラとそのへんを散歩するには、べつにどうってことはない。

しかし、たとえば「請求書をポストに出しに行く」となると、俄然恐怖感が増したりするのでした。

 

ふだんのぼーっとした散歩では、ふつうにポストのところまで行ってるんです。

なのに、ただ「請求書をポストに入れる」という目的が付加されただけで、とても怖くなってしまう。

同様に、タバコを自販機に買いに行く、郵便局に切手を買いに行く、イヌを散歩につれていくなど、なんらかの目的が付加された時点で、ぼくにとって外出は恐怖に早変わりするのでした。

繰り返しますが、目的のない散歩なら、その場所まではいつも平気で行ってるんですよ。

こういうことを繰り返していると、そのうちポストや自販機のある場所さえもコワイような気がしてくて、どんどん行動範囲が狭くなっていってしまいます。

 

思えば、コンビニやスーパー、電車だって同じなのです。

ぼくはその場所が「コワイ」とレッテルをを貼ってしまったから、病院では広場恐怖症だといわれます。

しかし、もともとはさきほどのポストや自販機と同じだったのです。

とくにこれといった目的なくスーパーやコンビニに行くときには、べつに怖くないのです。

散歩の途中に、買い物をせずなんとなくコンビニやスーパーの中を通過していた時期もありましたから。

スーパーやコンビニが怖くなったのは、買い物という「目的」が付加された状態でその場を訪れることが多かったために、「私はスーパーがコワイ」と単純化して認識していたのだと思います。

電車やバスもそうだと思います。

電車やバスについては、ただなんとなく乗るというのは少ないと思います。

原則的に、なんらかの目的があって電車やバスというのは利用するものです。

じっさいには、スーパーやコンビニ、電車やバスそのものの中に入るのがコワイのではなくて、「何らかの目的を持った状態でその場に行く」ということが、コワイようなのですね。

 

これは、どういうことなのだろうか。

もしかすると、禅でいうところの「いま・ここ」に関係しているのかも、と思ったりします。

目的をもたず、ただプラプラと散歩するということは、まさに「いま・ここ」の状態なのです。

おー、サクラ咲きかけてんな、あ、あの猫またここにいるな、今日はあっついなー、なんか雨降りそうだぞ、そんなことを思ったり感じたりしながら、ただウロウロしている。

つぎになにをしようか、つぎはどこへ行こうか、そんなことはあまり深く考えず、ただ景色をながめたり、道の先を呆然とながめている。

「いま・ここ」に意識があると、恐怖というのはあまり感じないのだと思います。

 

いっぽう、「ポストへ請求書を出しに行く」これは完全に「つぎ、あそこ」の状態なのですね。

「投函する」という目的性を持ってしまったがゆえに、意識がもう「いま・ここ」にない。

また実行することの難易度には、なにも関係がないのです。

ただポストに郵便物を投函することに、なんら困難はありません。

違いは、意識が「未来」にあるか、「現在」にあるか、ただそれだけなのです。

 

ふつうに考えれば、「散歩だと思ってそのへんまで行き、通りかかった瞬間に、【ついでに】サッと投函すればいいじゃないか」というアドバイスがあると思います。

しかし、これは完全に無効なアドバイスなのですね。

投函するという目的が発生した瞬間に、もう「ついで」は消えるのです。

自分の行動が、目的というものに、完全制覇されてしまう。

 

異常性があるとしたら、ぼくはこの部分だと思うのです。

「ついでに……」は、りくつとしては当然わかる。そのとおりだと思う。

しかし、わかっていてもそれができない理由というのは、

「散歩だと思う」ことができない。

という、このことに尽きるのです。

つまり、投函という目的が発生した瞬間、散歩は全面的に「作戦行動」に変異してしまうのです。

「目的」の発生と同時に、意識が「いま・ここ」から「つぎ・あそこ」に、急転する。

異常性は、ここにあるのではないか、と睨むのです。

 

ぼくは生まれつきは、ちょっとバカなんじゃないのっていうぐらい、とてもノンビリやさんの、マイペースでした。

しかし社会の荒波に揉まれていくうちに、ぼくは「せっかちさん」に変化していきました。

本来のぼくから見れば、この社会は、とてもとても高速に動いているように見えるのです。

目にもとまらぬ速さ、といっても過言ではありません。

小学校の休み時間は10分だけというのも、ぼくにはけっきょく6年間で、ちゃんと理解することができませんでした。

やすむ、という概念については、ぼくの時計でいけば、それは半日とか、3時間とか、それほどの長時間を定義しています。

 

授業時間の45分も、短すぎると感じていました。

そんなに切り刻まなくても、たとえば「今週はぜんぶ国語」とかのほうがいいのに、と思っていました。

さっきまで算数をしていたのに、もう国語になってくると、いちにちのうちに、たくさんのことがあたまにはいってきて、ミックスジュースになってしまう。

きょうはずっと算数をして、あしたもずっと算数で、あさってもずっと算数。

きょうはずっと美術で、あしたもずっと美術で、あさってもずっと美術。

そうしたほうが、もしわからないところがあっても、さすがにわかるだろうし、その教科がきらいでも、どうしてきらいなのかがわかるだろうし、ちゃんとわかれば、ひとはそうそうその教科をきらいにならないし、1日ぐらい休んでもなんとかなるし、遅刻したって全然だいじょうぶだし、しっかり根っこから理解できるとおもうし、「ほんとうにすきなこと」も見つかりやすいとおもう。

たった45分で先生のいったことがぜんぶ理解できて、それもずっと覚えていられるひとは、クラスに数人ぐらいしかいないんじゃないかなあ。

いそいで勉強して、はやくとくいわざをきめなさい、とかいわれてもなあ。

のろまなぼくには、よくわからないよ。好きか嫌いかさえ、わからない。

 

給食をたべる時間も10分15分で、これも異常に早いと感じます。

ごはんをたべるスピードは、ぼくの時計では、最低でも30分、もしおしゃべりとかもするのなら1時間から2時間、というのが通常だと感じていました。

それに食後には、昼寝を30分から1時間、ほしいところです。

だけど学校や社会では、それは「絶対にゆるされない」ことなのです。

 

ぼくはバカだったけど、「このままではダメだ」ということぐらいは、さすがにわかりました。

だからぼくは「ぼくの時計」をすてて、「社会の時計」を腕に巻きつけたのです。

しかし元来、強烈なのろまですから、超特急のこの世界に対応していくには「ものすごく急ぐ」必要がありました。

10年、20年と、ずっと急いで生きていったため、ぼくはいつのまにか「せっかちさん」に変貌をしていました。

時間に正確というキャラクターと、ひきかえに。

気がつけば、ぼくはふつうの人よりも、せっかちになっていました。

この「急ぐ」ということが、ぼくのパニック発作や広場恐怖、自律神経失調症と強く関係しています。

小学生のころは、この世界のスピードの速さに目をまわしていたというのに、いつのまにかぼくは、この世界があまりにのろますぎて、イライラするようになっていたのでした。

 

からだの弱いひとが、重い荷物を背負うのと、もともと頑強なひとが重い荷物を背負うのとでは、わけがちがいます。

おなじように、のろまなひとが急ぐとの、もともとせっかちな人が急ぐのとでは、わけがちがうのです。

のろまにとって、この世界は、はやすぎる。

ふつうの人以上に、急ぐ負荷がつよいのです。

 

ぼくの中心にある時計は、この社会よりも、針のスピードがかなり遅いです。

でも、ぼくの時計と、この社会の時計が、完全に一致している部分がじつはあります。

24時間、365日、ずっと一致しているところがある。

それが「いま・ここ」なのです。

ぼくの時計がいくら遅くて、社会の時計がいくら速くても、「この瞬間」だけは、完全に一致しています。朝日が登る瞬間は、ぼくの時計でも、社会の時計でも、まったくの同時です。

 

だからぼくは、すこしまちがえていたのだと思います。

ぼくは「急ぐ」ことで社会の時計にあわせようとした。

時間には、1.相対的時間 と 2.絶対的時間 があります。

ぼくはこのうち、1.相対的時間 のなかで、じぶんとはちがう時間にむりやり針を合わせようとしていたのでした。

つまり、スピードを上げることが、ぼくと社会の時計を一致させることだと考えていた。

たしかに、それも間違いではありません。

でも、べつの方法もあった。

「いま・ここ」は、どんな時計にも依存しない、絶対的な一点だから、ぼくはそこで生きていってもよかったのです。そうすれば、ひととズレることはない。

朝は朝だし、昼は昼で、いまはいま。それがズレているわけではないのです。

時間を守るとか、そういうのはただの方法論ですから、それは練習すればすむだけの話。

なにもこころまで社会の時計に売り渡す必要はなかった。

わたしのからだは自由にできても、わたしのココロまで自由にできるとは思うなよ!

って、言ってやればよかった。

ぼくは、社会の時計にあわせることで、じぶんの時計とズレていった。

そして「いま」さえもが、社会の時計とも、じぶんの時計とも、ズレてしまった。

 

「ぼくの時計」を、とりもどそうと思うのです。

いっかい捨ててしまったけど、それはぼくのいのちとつながっているから、探せばきっとまだ、どこかにあります。

「いま・ここ」に、とどまる練習をしよう。

そうすれば、ぼくの時計は、またもとのとおりに動き出すと思います。

「いま・ここ」にさえちゃんと立っていれば、どんな時計の世界とも、うまくつきあっていける。

絶対的な一点は、すべての中心だから、なにものにも影響されない。

 

  • ぽぽんた より:

    本来 分断 されていない
    ひとつながりのもの を
    時間や なにかで 区切るから
    苦しかったり 鬱に なるのかもしれない。
    この 世界 は。

    こたえ を だそうと
    あせりすぎていたのかも しれない。

    ゆっくり いきたい。

    ゆっくり いこう ね。

    って。 なんとなく。 (_ _)*

    • TERA より:

      なるほど……。
      たしかに、本来分断されているようなものはなにひとつなくて「分断されているように見えているだけ」っていうのは、ありますね。
      あのややこしい迷路でさえ、目をつむって壁に触れたままずっと歩けば、必ずゴールに出られます。
      壁で分断されているように見えていても、ほんとうはぜんぶつながっているんですよね。
      分断されているように見えるだけのことを、分断されていると確信してしまうところから、なんかややこしい話に展開していくのかもしれません。
      ほんとうの、ほんとうは、国境もないんですけどね。
      便宜的なものを絶対としたときに、迷いがうまれるのかもしれません。

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