コントロールしない練習

人にイライラしてしまうのは、その人をコントロールしたいと思うからなんだそうです。

自分の思うように人を動かそうとしたけど、それが思い通りにならないから、イライラしてしまう。

だから人をコントロールしようとするよりも「ともに生きる」「ともに考える」という姿勢がまず大事で、人をありのままに、そのままに捉えることで、イライラを持つことが減るのだそうです。

 

ぼくはこれは、パニック障害にもあてはまるんじゃないかなあと思いました。

パニック発作って「怒り発作」の側面もあると感じるんですよね。

イライラ、ソワソワのものすごいやつ、みたいな。

ただ幸か不幸か「意味不明に怒ってはいけない」っていう上位意識が強いし、また元来性格的に怒りを表現する習慣が少ないものだから、怒り方をしらないし、怒鳴り散らしたりはしない。

だからかえって鬱々と、こころの中でくすぶりつづける。

 

ぼくがあまり人に対してはイライラしないのは、そもそもコントロールしようとは思っていないからかもしれないです。

へんな話だけれども「人がおれのいうことを聞いてくれるわけがないじゃん」っていう観念を持ってる。

だから思ったとおりに人が動いてくれなくても、それほどイライラすることはないんですね。

ま、そりゃそうだろ、と思う。

かなしい話でもあるけれど、そもそも人を信用してないというか、広告業という仕事だというのが大きいかもしれません。

じぶんの期待通りに人が動いてくれたら、広告なんかいらないんですよね。

人は思ったとおりに動いてくれない、そんなことは長年広告をしてきて、いやというほど知ってる。

はっきり言って、じぶんの家族でさえ、思い通りに動かすことは難しいのです。

 

でも自分自身に対しては、まったく別です。

これはぎゃくに、ひどいコントロール欲があるのです。

思い通りにじぶんのカラダやココロが制御できないなんて、とんでもない! そう思ってる。

ぼくがヨガを好んでいたのは、これが理由でもあります。

ヨガは本来「たづな」という意味で、真我が自我をコントロールするための手法、という意味合いもあるそうです。

自分自身にたづなをつけて、しっかり制御し、思い通りにコントロールする、それがヨガだとぼくは認識していました。

 

しかし、へんなもので、ヨガを3年も4年もまじめに継続しても、いっこうにパニック障害や自律神経失調症はよくならないのです。

むしろ悪化している部分があるぐらいです。

ひじょうに、イライラ・ソワソワするようになっていきました。

このことについて、ぼくはものすごく不可解でした。

じぶんをコントロールする修行をずっと続けているのに、かえってコントロールが効かなくなるのは、なぜなんだろう。

 

もしかしたら「あたりまえ」だったかもしれません。

さきほどの、「人にイライラするのは、その人をコントロールしたいと思うからだ」というのと、まったく同じなのではないか。

イライラというのは、人に対してだけではないんですよね。

自分自身にイライラするというのは、自分自身をコントロールしようとするからかもしれません。

人が思い通りにならないのはしょうがないが、自分に対しては、許せない。

もしかしたら、そんな「偏った」認識が、意味不明のイライラや焦燥感を強めているのかもしれないです。

 

あるひとが、盤珪という高名な禅師に質問をしたのだそうです。

「わたしはカミナリが怖くて、あの音を聞くとものすごくびっくりしてしまって、居ても立ってもおられません。どうしたらよろしいでしょうか?」

禅師は答えました。

どうしたらよろしいでしょうか、っていうのがいけない。びっくりしたら、びっくりした、でいいじゃないか

 

カミナリを、パニック発作を引き起こす症状に置き換えてみたら、腑に落ちるのです。

「わたしは、あたまがフラっとしたり、動悸がしたりすると、びっくりして怖くなってしまって、ひどい病気なんじゃないか、もう死ぬんじゃないかと思って、居ても立ってもおられません。どうしたらよろしいでしょうか?」

たぶん盤珪禅師は、こう答えるのでしょうね。

「どうしたらよろしいでしょうか、ていうのがいけない。びっくりして怖くなったら、びっくりして怖くなった、でいいじゃないか」

 

その発想はなかった。

「自分自身は、意思通りにコントロールできて当然である」という強いエゴがあったために、こんな発想は思いもよらないです。

怖いという感情、恐怖や恐慌や不安を「とりのぞく」ことばかり、ずっと考えてきました。

恐怖や恐慌や不安に「ならない方法」を、ずっとトレーニングしてきました。

でも、10年やっても、治らなかった。

恐怖や恐慌や不安は、取り除こうとすればするほど、かえって巨大化肥大化してしまうのです。

そっとしておけばよかったものを、よけいな関心で蜂の巣をつついてしまった、といようことかもしれません。

 

ありのままに、そのままに。

これは何も、人に対してだけ持つべき姿勢ではないのかもしれないですね。

むしろ、自分自身に対して持つべき姿勢なのかもしれません。

人が人ならば、ぼくも人だ。おんなじ。

じぶんだけを「コントロールすべきもの」と考えるのは、ある意味差別主義ともいえます。

人も、じぶんも、コントロールしようだなんて傲慢なこと、思わなくていい。

怖かったら、怖かったでいいじゃないか。

不安なら、不安だ、でいいじゃないか。

それを「どうにかしよう」と思った瞬間に、パニック発作に突入していく。

 

コントロールしない練習、というのも必要なのかもしれませんね。

なにごとも、コントロールしようとしない。

ありのままに、そのままにともに居る、ともに歩むということのほうが、コントロールしようとするよりも、ずっとずっと賢いのかもしれません。

ぼくは、ぼくの不安とともに居て、ともに歩む。

治そうとしない、退治しようとしない、コントロールしようとしない。

 

まあ、とはいうものの、長年染み付いた「じぶん征服欲」は、なかなか脱げないですね。

ボディスーツみたいに、ぴったりカラダに張り付いて、引っ張っても動かないよ。

きっと、

「何事もコントロールしない癖をつけるように、じぶん自身をコントロールしよう」

とか、思ってるんでしょうね。

へんなやつだなあ。

そんなに思い通りにならないと、気がすまないのか?

 

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