「ネット断ち」といって、定期的にインターネットに接しない時間をつくると、脳疲労などがとれて良いという話があります。
これと似たことでは、デジタルデトックスということも、昔よく言われていました。
インターネットを多用していると、どうして神経が疲れてしまうのか。
目の問題だといわれることもあるけれど、たぶんそれだけではないです。
映画をいっしょうめんめい見ても、文章をたくさん書いても、おなじように目は疲れます。
しかしネットサーフィンで疲れるのとは、すこしちがうのです。
ネットサーフィンは、目だけでなくて「こころ」が疲れる。
ぼくが好きなサイトを改めて見ていて、気が付きました。
これだけでなく、「ほぼすべてのサイト」に共通することを発見しました。
まあ大したことではないんですけど、
ネットは「ひとの欲や不安」に、いちいち答えている。
っていうこと。
たとえばライフハッカーの記事一覧を列挙して、それが「どの欲や不安」に対応しているかを見てみます。
・牛乳は「体に悪い」って本当?
→ 健康不安
・旅先での「困った…」を減らす。旅行をラクにする便利ツール7選
→ 物欲
・使うときだけ長財布に変身する二つ折り財布 。コンパクトと使いやすさを両立
→ 物欲
・15分で0度まで冷却! 持ち運びできる冷蔵庫 「PARAGO 冷凍冷蔵クーラーボックス」が登場
→ 物欲
・飲んだ夜でもきちんとした睡眠をとる方法
→ 健康不安
・人生の先輩たちが残した、若かりし自分に向けたアドバイス6つ
→ 将来への不安、自己承認欲
などなど。
ま、あたりまえですけどね。
人の欲や不安に答えていない記事は、とてもかんたんにいえば「つまらない記事」です。
発信者はいつも「面白いと思ってほしい」と願っています。
だから、おもしろい記事を書くことを、つねに意識しています。
おもしろい記事というのはつまり「欲と不安にこたえる」ということなのですね。
だからネットでさまざまな記事を読み漁るのは、「じぶんの欲を満たしたい」という衝動なわけです。
欲を満たすための行動をする、ということは、「じぶんが、じぶんの欲にいちいち反応している」ということなのですね。
疲労するポイントは、まさにここだと思ったのです。
欲そのものが、わるいのではないのですよ。
「欲にいちいち反応している」ということが、わるい。
パニック障害など神経的な不具合を抱えていると、当然ながら「治したい」という欲が生まれます。
そこで、神経や人の体験談などを、読み漁るようになります。
「治したい欲」に「反応」し、「行動」をしているのです。
しかし残念ながら、欲というのは、満たせばそれで消滅するわけではありません。
満たせば満たすほど、増えていく傾向もあります。
また場合によっては満たされないこともあり、そうすると今度はフラストレーションが溜まる。
ひとの体験談を読み「これが良い」という話を聞けば、こんどは「それを試したい」という欲もうまれる。
欲 – 反応 – 行動 – 新しい欲
このループを、延々と繰り返すはめになる。
欲がわるい、という観念があると、とても話がややこしくなってしまうんですよね。
欲そのものを悪者にしてしまうと、「行動の抑圧」がうまれるのです。
見たいけど、見ないようにしよう。
したいけど、しないようにしよう。
最近いわれている「ネット断ち」も、へたをすると、そのような方向に向いがちです。
しかし、「行動の抑制」は、えてして結局「欲をよけいに燃え上がらせる」ところもあるのです。
お酒をやめよう! と思ったら、かえって飲みたくなるのとおなじです。
順番が、おかしいんだと思うんです。
行動を抑制するまえに、「こころの癖」をあるていど治さないと、ただつらいだけなのではないか。
ただの苦行に堕してしまうのではないか。
「欲にいちいち反応しない」ことができないのに、いきなり行動の抑制をかけると、フラストレーションが溜まっていくだけかもしれません。
だから「◯◯断ち」とかをするばあいは、そのまえに「いちいち反応しない練習」を、先にやるべきなのではと思ったのです。
我慢しろ、といって我慢して、それでうまいこといけば、もちろんそれに越したことはありません。
でもパニック障害などを治したいという欲求を「我慢しろ」というのは、ちょっとあまりにも、無理がありすぎると思います。
それができるのなら、もう何事もコントロールできる境地に到達していると思います。
無理だ。
怖い、と思った。
そのときに、「逃げたい」という「欲」に反射的に「答えよう」としてしまうと、行動がうまれて、パニックになります。
しかし怖い、と思ったとき即座に「わたしは怖いと、感じているようだ」という客観性をいったんブチ込むと、すこしだけですが、怖さが減ります。
怖いと思っているじぶんを、ぼうっと見る。
すぐにはできないですけど、練習していけば、ちょっとだけできるようになってきます。
これをなんどもなんども練習していけば、かなり上達するかもしれません。
ぼくはいま、これを練習中です。
欲があるから、苦しみがうまれるんじゃない。
欲にいちいち答えようとするから、苦しみがうまれやすくなる。
答えられないことのほうが、多いからです。
だから根っこのところで「答えない」っていう練習をしておけば、行動や感情にまで波及していく確率がぐっと減るのだと思います。
欲をすててしまったら、ヤバいんですわ。
もう、いちいち生きていかなくてもいいじゃん、ってなってしまう。
それにだれか困っている人を見ても、もうなんにも思わなくなってしまいます。
人が人として当然持っているべき情動を、全部うしなってしまう。
そうなったら、それはもう正常とはいえません。
欲がないのは、こころがないのは、聖者じゃなくて、病気だと思います。
なんでいちいち、病気になりにいかな、あかんねん。
んなアホな。
と、ぼくは思う。
じぶんが持っている欲についてさえ「ありのままに、そのままに」でいいんだと思います。
いちいち消そうとしたり、減らそうとしたり、コントロールしようとしたりしなくていい。
あるものは、そこにあるがままでよし。
それにいちいち抱きつきにいかなくていい、ってだけなんだと思うんですよね。
ああ、あるね。しっかりあるね。そうですか。
で、いいんじゃないかな。
そのために、座禅するんだと思います。
ぼくが、いま、なにを考えているかを、「ぼくのなかのぼく」が、ぼうっと見ている。
なにもさわらない、なにもうごかさない。
ああ、そうですか、そうですか、そうですね、そうですね。
いちいち「そういうことなら、これをしよう」「これがあるから、だめなんだ」っていうのを、やめていくんでしょうね。
欲にいちいち、つきあわない練習。