仕事柄、むかしはSNSを積極的に使っていたんです。
それにインターネットを使った人同士のコミュニーケーションというのは、以前はけっこう画期的だったというのもあります。
新しもの好きのぼくは、すぐさま飛びつきました。
しかし2年ほど使っていくうちに、あることに気がついたんですよね。
とても仲の良い友人知人たちの発言を見ていたら、そこには「よかったこと・うれしかったこと」しか書いていないのです。
それを見ていると、ものすごく充実した生活を送っているように見えます。
しかし同じ友人知人と直接会って飲んだりしていると、みんないいことばっかりじゃない。
SNS上では一見華やかな生活をしているみんなも、それぞれ地獄を持っています。
とんでもない失敗をやらかしていたり、なにかのことで深く悩んでいたりすることがある。
まあ、あたりまえです。
ほとんどの人は、うれしい一面と、かなしい一面を必ず同時に持ち合わせていますから。
だから、思ったんですよね。
SNSって、自慢する場所なのか?
「わたしは幸福で充実した人生を歩んでいます。仕事を頑張っています。」
そういうことを、どうしてわざわざ、友人知人に申し伝える必要があるのだろう。
それを発表して、みんなから「いいね!」をもらって、ほんとうに嬉しいのだろうか。
ふつうに考えて、親友でもないだれかがステキな人生を送っていることに対する喜びというのは、それほど強くはないはずです。
それよりも、仕事仲間であったり家族であったり親友であったり「苦楽をともにしている人」に吉祥が訪れたときにこそ、ほんものの「いいね!」という感情がめばえます。
苦楽をともにしていない人が得た吉祥は、正直にいうと、社交辞令の「いいね!」にほど近いです。
人によっては、嫉妬さえ覚えることもあるのではないでしょうか。
SNS上の不特定多数のひとたちに、自らの幸運や取り組み姿勢を発表して「いいね!」を托鉢するというのは、社交辞令がほしい、ということなのでしょうか。
苦楽をともにしている人ならば、わざわざネット上で報告してもらわなくても、もう知ってます。
だから結局「分離不安」なのかな、とも思ったりします。
SNSの特性として「ゆるくつながる」というのがあります。
つながる、ということを、よく宣伝したりもしています。
ということはつまりSNSをよく使うひとたちは、「つながりたい」のでしょう。
逆にいえば「つながりがないと、怖い」すなわち分離不安が大きいのかもしれません。
ただし「ゆるく」というところも見逃せません。
じぶんが提示した情報について「それは違う」と糾弾してほしくない。
また、始終連絡報告の義務も背負いたくない。
ゆるゆると、ほんわかと、社交辞令的な「いいね」で、「なんとなくの安心」を得たい、ということなのかもしれないですね。
でも、もしそうだとしたら、これは論理的な矛盾を抱えているような気もします。
自分のハッピーやラッキーを報告するということは、「うらやまがしがらせる」ということでもあります。
SNSの使いすぎで心身症になってしまう人も多いそうですが、中には「充実しているみんなの生活と自分を比較して劣等感を持ってしまう」という人も実際にいるそうなのです。
劣等感は嫉妬の裏返しだから、つまりは「うらやましがっている」というわけです。
実際には、いいことを書いている人にも、クソみたいな側面はある。
しかしブラウザやアプリからでは、それは見えないのですよね。
だから強い嫉妬のような、「うらやましい」感情も芽生えてしまう。
そして、「わたしも負けていない」とばかりに、良いことがあったらそれをSNSに載せたりします。
「わたしも、うらやましがられたい」のです。
もう、つながってないやん
つながっているように、見えているだけで、実質的には「競争」みたいになってるんですよね。
ほめられたい、うらやましがられたい、がんばっている私を評価してほしい。
そういう動機がある時点で、それは「分離」です。相手と、じぶんを、分離して見ている。
「頑張っている私をここに書くことによって、ひとに余計な嫉妬心を芽生えさせてしまうかもしれないい」ということは、一切考えないのです。ええオッサン・オバハンのくせに。
まるで餓鬼のように、「頑張っている私をここに書けば、ほめてもらえる」としか考えられないのです。
つながってねえわ。ぶった切ってる。
つながってるのなら「それを見た人がどのような感情になるか」も、考えてあげるものだと思います。
赤ちゃんが生まれました、という幸せなニュースでさえ、不妊で悩む人にとっては、嫉妬を芽生えさせることになりえるのです。
「それは考えすぎだ」というひとは、むしろ「考えてなさすぎる」と思うんですよね。
自罰的すぎると思う。
「嫉妬を感じる、私がわるいのだ。嫉妬を感じないように、努力しよう。」
それはそれで、もちろんすばらしいことだとは思う。
でも、そういう自罰的な考え方をしているから、人にもそれを求めるのだと思います。
嫉妬を感じる方も確かにわるい。
でも同様に、嫉妬の原因をつくるほうもわるい。
片方だけを糾弾し、片方を責めないのは、平等とはいえないです。
だからもう、完全にSNSはやめてしまったんですよね。
連絡ツールとしてはすばらしいけど、そもそもの機能にはあんまり魅力ないです。
SNSで充実しているように見える人こそ、じつはこころに、すごく深い闇を抱えてる。
友人の数は、直接会ってじっくり会話したり、長電話できるぐらいの数が適正です。
うすくても、ゆるくてもいいから、とにかくだれかと、ずっとつながっていたい。
そんな気分のほうがぼくはよけいに寂しいと思うし、一種の狂気さえ感じます。
それを知ってしまったら、もう「いいね!」といっていいのかどうか、わからなくなってしまったんですよね。
おめでとう、ありがとう、よかったね。
それは直接伝えないと、意味ないぜ。