坐禅はやっぱり、姿勢が大事だと思う。

どうして、こんなに単純なことを思いつかなかったんだろう。

仕事中に姿勢が維持できなくなったら、仕事を休憩すればいいじゃないか。

無理するんじゃなくて、「仕事するときは姿勢を正す」と決めて、できなくなったら休めばいいんだ。

仕事と姿勢の維持を「セット」にすれば、よかったんだ。

姿勢が維持できないのなら、集中はしない。

姿勢が維持できないのなら坐禅はしない、っていうように。

 

ぼくの自律神経の不具合は、姿勢がわるいことも大きく関係していると思うんです。

仕事をしているとどんどん背中が丸くなっていってしまって、猫背になる。

その状態でパソコン作業を続けていくと、あたりまえなのですけど、呼吸が苦しくなります。

で急に立ち上がったりすると、あたまがフラーっとなったり、ものすごく息が苦しくなる。

この状態を何度も何度も繰り返していると、だんだんいやあな気分になってきます。

いらいらしてくるし、不安にもなります。当然動悸もするようになる。

 

そこで、「姿勢をちゃんとしよう!」と決心するわけです。

たしかに姿勢を正しくしていると、呼吸が苦しくなったりすることは少なくなって、結果機嫌も良いままで仕事ができるのです。

でも根性なしゆえ、すぐに姿勢がもどってしまう。

とくに仕事に集中すればするほど、姿勢のことをコロっと忘れて、足を組んだり傾いたりねじったりして、元の木阿弥になります。

なんどやっても、そうなる。

ヨガをしてみたり、ストレッチをしてみたり、いろいろするんだけど、結局なにも変わらないのですね。

習慣とはおそろしいものです。

 

そもそもの考え方を、まちがえていたのです。

それに気がついたのは、坐禅をするようになってからでした。

テーラワーダ系の瞑想ではあまりうるさく言われないそうなのですが、日本の座禅は姿勢にすごくうるさいです。

一にも姿勢、二にも姿勢、といわれるぐらいなんだそうです。

だから坐禅中は、かなり姿勢を意識しなければなりません。

「瞑想」という側面だけにフォーカスしたばあい、それは本末顛倒なのでは? と言うひともいます。

坐禅中に姿勢ばかり意識していたのでは、それは瞑想をしているのではなく、姿勢を正しているだけだ。

だから姿勢のことはそんなに気にせず、意識を集中させることを優先すべきなんだ、というふうに。

確かに、言われてみれば、そんな気はする。

でも日本の禅は、姿勢をちゃんとすることを、とても大切にします。

 

あたりまえのことだったんですよね。

まずよい姿勢であるというのは、これはまず間違いなく、良いことではあるのです。

よい姿勢でないと、呼吸も深くならないですからね。

わるい姿勢で瞑想をするのと、よい姿勢で瞑想するのとではどっちがいいか、といえば、よい姿勢でするほうが良いに、決まっています。

姿勢ばかり気にしていたら瞑想にならない、というのは、「いますぐ理論」なのですね。

いますぐ、瞑想効果とうものを体験してみたい。

姿勢をいったん保留にしているのは、瞑想の妙味をちょっと体験してみる、という目的だからです。

体験優先のためには、まずは姿勢のことをうるさく言うよりも、本来の目的である意識や呼吸のほうを気にしなさいというわけです。

 

しかしこの「いますぐ」を取り除けば、俄然「姿勢こそが重要」ということになってきます。

ただしい姿勢で、坐禅をする。

可能であれば、そのほうがいいに決まっているのです。

なので瞑想とか集中とかいうのは「姿勢がちゃんとできるようになってからやる」という方向性があっても、全然おかしくないですし、むしろ長期的にはそっちのほうが良いかもしれません。本質的です。

わるい姿勢で坐禅をする習慣がつくと、悪い姿勢でデスクワークをする習慣とおなじで、あちこちに不具合が出てくる可能性は高いです。

毎日やるからこそ、長時間を目指すからこそ、よい姿勢をこころがける。

これはべつに厳しいとか古臭いとか合理的ではないとかいう話ではなくて、坐禅云々のまえに、ものすごくあたりまえのことなのですよね。

 

このことに気がついたら、

仕事もそうしよう。

と思ったのでした。

1.神経の具合がわるい原因は、仕事の姿勢がわるいからというのもある。

2.神経の不具合を改善するためには、姿勢をよくすれば良い。

 

だったら「仕事をするときには、姿勢を正す」というふうに決めればよかったのでした。

ぼくは現在、坐禅は15分までしかやっていません。

だから逆にいえば、「15分間なら、集中した状態で姿勢を維持できる」のです。

ということは、仕事の継続単位を15分にすればよいだけなのです。

姿勢の維持ができなくなったときには、姿勢の維持だけではなく、集中そのものも休憩する。

「集中するときには、姿勢を正す」という癖をつけていけばよかったんだ。

姿勢が崩れてしまうのは、もう姿勢維持に疲れているのに、あるいは集中の糸も切れてしまっているのに、それでもなお継続することに執着していたからです。

どうしても姿勢を維持できなくなったときは、休憩のサイン。

これに逆らうのではなくて、すなおにしたがう。

で、別件で日々「姿勢をただして集中できる継続時間」を伸ばす、練習をする。

 

姿勢正しく坐禅をする時間を伸ばしていけば、仕事中に姿勢を正しておく時間も伸びていくわけです。

同じ筋肉、同じコツですからね。

そして坐禅は、最長でも1回40分まで、というのが一般的です。

仕事も、40分集中すれば1回休む、というサイクルは、決して異常ではありません。

いまでこそたった15分で休憩しなくてはいけませんが、坐禅の時間が伸びれば、できるようになるはずです。

 

急ぐから、だめだった。

それに「姿勢がわるくても仕事をしても良い」という、ゆるすぎるルールにも問題があった。

気長に姿勢を正す習慣をつけようともせず、骨格だの筋肉だの椅子だの根性だののせいにして、いますぐ姿勢が正しくなれる方法ばっかり探すから、習慣がつかないのですね。

たしかに、いまは15分しか姿勢正しく坐禅することができません。

でも日々積み重ねていけば、いずれ40分程度なら姿勢を正して仕事ができるようになるはずです。

そしていくら姿勢維持が上手になったとしても、仕事は40分ごとに1回は休憩を挟むほうがいい。

急がなければ、そんなに難しいことではなかったのだと思います。

 

坐禅に目的はあってはならないと言います。

だから、「仕事で40分間姿勢を正していられるために」という目的で坐禅をするのは、あまりよろしくないのでしょう。

そうすると、俄然、坐禅は「くるしいもの」になっていくんだそうです。

坐禅は、坐禅。

とくに目的なく、意図なく、理由なく、時間が来たらやる。結果も効果も期待しない。

坐禅の間は、できるだけ姿勢と呼吸だけに意識を集中する。

これを繰り返していけば、おのずとふだんの生活でも「集中する時には姿勢を正す」という癖がついてくるんだと思います。

ただし、逆になってはいけないんでしょうね。

仕事や姿勢矯正のために坐禅をするのではなく、坐禅は坐禅そのものが、坐禅なんだそうです。

 

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