「ずっと何かをしていないと気がすまない病」だったのかもしれません。
だれでも、そうですけどね。
ヒマなのがつらい、退屈なのが不安。
そう感じるのは、べつに病気ということでもないのだそうです。
これを専門用語で「時間の構造化」というそうです。
でもまあ、ぼくのばあいはちょっと度が過ぎていたかもしれません。
そもそもパニック障害で、これは不安神経症の一種だから、慢性的に不安なんですよね。
具体的になにか不安を抱えているというよりも、なんかしらんが、とにかく不安。
不安を感じているのが趣味、ぐらいな感じです。
だから「なにもしない」っていうのが、たぶん普通のひとよりも辛いのです。
肩も凝ってて目も疲れているのに、それでも仕事をしようとしてしまう。
べつに明日やってもいい仕事でも、してしまう。
真面目とか勤勉とかそういうんじゃなくて、ぼーっとしているほうが辛いからです。
無音が怖くてずっと音楽を流していたり、見もしないのにずっと映画をタレ流していたり。
頻繁に模様替えをしたり、ヨガやラジオ体操など、とくにしたいわけでもないのに、しょっちゅうやってみたりもする。
用事もないのにパソコンやスマホでネットをうろつきまわり、それほど興味もないのに、思いついたワードを検索してみたりする。
何かを読んでいないと、見ていないと、聞いていないと落ち着かない。
とにかく、じっとしていられないんだ。
たとえるなら「ライフスタイルそのものが、貧乏ゆすりをしている」っていう感じですかね。
あたまでは、わかっているのですよ。
べつにいま、それをしなくても、いまはぼうっとしていても、いいんじゃないか。
むしろ、いろんな面でそうしたほうがいいんじゃないか。
でも、できないんだよなあ。
さいきん毎晩坐禅するようになって、すこしマシになってきました。
「なにもしない」時間を1日に15分でも持っていると、だんだん慣れてくるのかもしれませんね。
とくになにもしていないし、見ていないし、聞いていないし、読んでもいない。
人間とはよくできたもので、じっとして動かず、なにも見聞きしていないと、だんだん思考も動きが止まってくるみたいですね。
不安だから、動き、動くから、思考が活発になり、思考が活発になるから、不安になる。
そんなループを、延々と繰り返しているようなところもあるんだろうと思います。
「なにもしないひととき」という爆弾をこのループに叩き込んだら、ループがすこし壊れるようです。
なにもしない、ということが、それほど不安には感じなくなってくる。
なにもしない練習。
ここで大事なのが、わりとやっぱり「姿勢」なのかな、と思います。
なにもしないで、リラックス。
というと、だらーんと姿勢を崩すようなイメージもあります。
じつは案外、これは効果がないのかもしれないですね。
むしろ、ビシっと姿勢を正している方が、よくリラックスできるみたいです。
姿勢をただして、なんにもしない。
姿勢をただして、ぼうっとする。
ふつうは、姿勢を正すのは「なにかをする」ためだ、っていう気がする。
でもそこを、あえて、なんにもしない。
ものすごくりっぱにまっすぐ、きちんと、しゃきんとしているのに……
なんにもしない。
これが、あんがい「いい」のですね。
べつに映画なんか流してなくたっていいや、本も読まなくていいや、ネットもウロウロしなくていいや、音楽もいらねえ、だれかと喋ってなくてもいいや、って思えます。
蝉の声とか、風の音とか、雨しずくの音でも、じゅうぶんに「いいな」と思える。
ディスプレイ上で、絶景や美男美女、かわいい動物、刺激的ななにかを探さなくても、窓から見えるいつもの景色でも、なんかいいねと思う。
ただしこれを、ソファに座って、だらんとした格好だと、そうはいかないのです。
背中をまっすぐにして、しゃきんとした状態でぼうっとするほうが、ジタバタしなくなるようです。
刺激がわるいんじゃなくて、こころがあばれてるんだ。
敏感なのではなくて、こころが焦ってるんだ。
姿勢をただして、なんにもしない。
そうすると、人間はそこそこ落ち着くようにできているのかもしれません。