【読書感想文】よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話

読書感想文って言っていいのかどうか。

というのも、無料で読める範囲でしか読んでないんですよね。

でもすごく、シンパシーを感じたというか、それは大変でしたねお疲れ様でした、と思った。

https://comic.pixiv.net/works/5021

「エホバの証人」という新興宗教の信者の家庭のお話です。

エホバの証人については何も知らなかったので、勉強にもなりました。

なるほど、かなり独特の教義があるんですね。

 

信者ではない家庭の子供のことを「世の子」と呼ぶことに、「おぞぞ」を感じました。

主人公の小学生の女の子は、「世の子」と遊ぶことは禁止されていたのですが、ある日お母さんは許してくれた。

帰ってきたら、お母さんが言うのです。

「『世の子』と遊んだって、楽しくなかったでしょう?」

こわっ!

まだ年端も行かんクソガキに、なんちゅう価値観の強制をしとるねんな。

そこは「どう? 楽しかった? 何して遊んだの?」でしょうが。

 

ぼくの母親は創価学会だったので、シンパシーを感じましたね。

このマンガのお母さんほど厳しくはありませんでしたが、ぼくも小学生のころ初詣も禁止だったし、修学旅行の伊勢神宮や高野山でも「お守りは絶対に買ってきちゃだめよ! お参りもしないように!」ときつく言われていました。

たぶんこの著者さんも「?」だったと思うんですよね。

なんで、それをしてはいけないのかが、さっぱりわからん。

まわりのみんなはたのしそうにしているのに、その輪に入れない。

たとえば隣のガキをぶん殴ったとか、万引したとかでこっぴどく叱られたのなら、いくらバカでもわかります。

でもまだ四則演算もままならぬようなクソガキに「四箇格言がどうのこうの」いわれてもなー。

混乱するだけだっつうの。

宗教なんて、50間近のオッサンになってもまだよくわかんないのにね。

 

でもまあ、ぼく自身は母親にある種感謝をしています。

母親が創価学会に入っていなければ、仏教や宗教というものに関心を持つことはなかったでしょう。

おかげで、視野が広がった部分もあるのです。

 

創価学会では、他宗の寺院への参拝は、禁止されているのですね。

「どうして?」と聞けば「謗法だから」なのだそうです。

つまり小学生のガキにでもわかるように極端に単純化すると、バチがあたる、てなもんです。

ぼくが当時住んでいた土地には、たくさんのお寺や神社があり、キリスト教の教会はもちろん、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教のモスク、道教の寺院までありました。

しかし創価学会のお寺は1件だけ。

ぼくはこの状態をして、思ったのです。

この世界は、わるいところばかりなんだな

 

しかし6年生ぐらいになってきたら、さすがにおかしい、と思い出したのです。

この世界が、そんなに「わるもん」ばかりなら、どうしてみんな楽しそうに生きているんだ。

ぼくは「いいもん」のほうにいるはずなのに、どうして「自由に神社に遊びにいけない」という苦しみを抱えているんだ。

仲の良い友だちは「無間地獄の」浄土宗のお寺さんだけど、そこのおばあちゃんはすごく優しくて元気。

「真言亡国」のお寺の息子は、すごくカラテが強くて人気者でした。

イスラム教徒のアリーくんはハンサムで、家にあそびにいったらとってもおいしいお菓子をくれて、アリーくんは美男子で面白いし、おかあさんもおねえさんも、美人でやさしい。

みんな、とてもいいやつで、仲良しでした。

 

しかし、創価学会の級友は、なんかみんな、クラかったし、コワかった。

体育祭のときには、創価学会の家の子供がみんな集まって題目を唱えていて「相手チームが負けますように」って祈っていました。

六甲山の遠足のときには、路傍のお地蔵さんを蹴っ飛ばしていた子もいました。

創価学会の家庭のこどもは、みんなクラかったし、陰湿でした。

ぼくはガキながらに、思ったよね。

「創価学会って、呪うのか?」

 

おかしいおかしい、どう考えてもおかしい。

そう思ったので、毎日図書館に通って、宗教の本を読み漁りました。

「どうして、ほかの宗派はダメなの?」

という質問に対しては、創価学会のひとはみんな、こう言うのです。

 

「お釈迦様の教えにはレベルがあって、バカにはバカ用の教えがあるの。

それがほかの宗派なのよ。

わたしたちの教えはお釈迦様の最後の教えだから、いちばんレベルが高いものなの。

学校でも、小学校1年生と6年生では、6年生で習うことのほうが高度でしょ?

他の宗派は低学年で、わたしたちは高学年なわけよ」

 

それならば、と思って、まずは真言密教を勉強してみました。

そうしたら……。

 

わけわかんねえよ

 

まだ12歳ですからね、あたりまえだ。

で、思ったんだ。

「これがほんとうに、バカなひと向けの教えなのか……?」

 

おかしくねえか。

ぼくは小学校6年生だから、小学校1年生の授業は、ぜんぜんバッチリわかります。

楽勝です。

それならば、創価学会の勉強会に行っているぼくは「低学年の」真言宗の教えぐらい、スラスラわかって当然なんじゃないか?

そこから毎日図書館に通って、真言天台浄土禅のみならず、チベット密教、ソロアスター教、キリスト教、ブードゥー教、白黒魔術まで、読み漁りました。

結果、ぜーんぜんわかりませんでした。

 

そこで、いろいろな宗派や宗教について「ここがわからない」というところを書き出して、創価学会の会合で質問してみたのです。

そうしたら、場が凍りついた。

「なんということを……そんなことを我が子に自由に学ばせていたのですか。とんでもない!」

といって、母親が怒られたのでした。

ピンときたんですよね。

「なんだ、みんなもわからないんだな」

私達の教えは高度だといっているけれど、じぶんたちが低俗だといっていることを、なにもわかっていないし、知ろうともしていないんだ。

母に言いました。

「ぼくは図書館でいろんなお経を読んだけど、どのお経でもお釈迦様は弟子の質問にちゃんと答えてくれてる。あのひとたちはお釈迦様でもないのに、質問さえ許してくれないんだな」

じつはこの回だけでなく、母もいろいろ座談会で質問をしたことがあったそうです。

そのときも「なんていうことを先生に聞くんだ!」といって、周りからこっぴどく怒られたんだそうです。

ぼくも母も、これがきっかけで脱退することになりました。

 

彼を知り、己を知れば百戦殆うからず

なのに、新興宗教では「彼を知る」ということを、しようともしないのですよね。

浄土宗はダメだから、近づいちゃダメ。

だったらばこそ、浄土宗が実際にどういう教えなのか、知らなくてはいけないはずです。

そこでしっかり調べてみると、浄土宗は決して邪教ではありません。

まっとうな、ひとの苦しみにすなおに応えてくれる、癒やしの宗教です。

禅も、真言も、天台も、チベット密教も、キリスト教も、イスラム教も、ゾロアスター教も、ミトラ教も、神道も、それぞれすばらしい側面があります。

なのに、その美点は見ようとせず、まるで小学生や中学生のように論理矛盾だけを突っつき回して、ここがおかしい、これがだめだ、という。

宗教論議ではなく、ディベートをしている。

それは「ちゃんと見ていない」ということに、ほかならないですよね。

 

宗教は、その論理や矛盾がわるいのではないと思います。

宗教を信じるのは、人。

そして人は、しばしば過ちを犯す。

だから教義や論理がおかしいのではなくて、人がおかしいことのほうが多いと思う。

どの宗教を信じていても、よい人柄ならば、それは良い宗教になるのだと思います。

だから創価学会が邪教だとは、思いません。

人徳ある、よくできた人が信じれば、それは良い宗教になるのだと思います。

 

りくつのまえに、人柄だ。

これは宗教に限らず、すべてのことに、言えますよね。

 

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