殺すなら殺せ

庭に出てぼうっとしていたときに、ふと思った。

ぼくに足らないのは覚悟だな、と。

 

ちょっと息苦しいだけで、肺炎だろうか結核だろうかと心配になる。

あたまがすこしフラっとしただけで、脳梗塞とか脳溢血とかいうワードがよぎる。

動悸がしたら、すわ心筋梗塞かと疑う。

そんな心配、一回もあたりませんでした。

つまりこれは、ぜんぶ妄想だった。

「不安神経症」なんて、カッコのいい名前をつけてもらったって、そのじつはただの妄想癖だ。

 

なぜ、心配になるのか。

その裏には「健康でありたい」「死にたくない」という強い思いがあるからです。

でもこれは、あたりまえですよね。

そう願わないひとは、おそらくほとんどいないと思う。

だれだって健康でいたいし、できるなら死にたくないと思うはず。

病気したい、死にたいと願うほうが、あきらかな病気です。

 

殺すなら、殺せ。

そんなワードが落ちてきたのですよね。

ひとはだれしも、いつか死ぬ。

生きれば生きるほど、病気もする。

こればっかりは、しょうがないです。

 

努力してもしょうがないところで、ぼくはなにを、努力していたんだろう。

死なない努力、病気しない努力。

あたかも、死や病に「勝とう」としているようではありませんか。

世界最強の男でも、病気と死には勝てないです。

徳の高いお坊さんでも、病気と死には勝てないです。

なのに一介の凡人に過ぎないぼくのようなものが、なにをえらそうなことを考えていたのだろうか。

 

肚が座ってないんだよな。

いずれくる、どうしようもないことに対して、いつまでも逃げようとしている。

あるいは、いつまでも戦おうとしている。

ああ、ダサい。

これは、ダサすぎる。

 

肚を鍛えようと思った。

殺すなら、殺せ。

気迫も、覚悟も、でどころはおなじ。

怒りじゃなくて「あきらめ」なんですよね。

どうしようもないことは、どうもしなくていい。

どうしようもないことを、どうにかしようとするのは、あきらめが足りない証拠。

つまり、肚がすわってないんだよな。

 

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