最近坐禅が気持ちよく、また坐禅をはじめてから自律神経の具合も良くなってきています。
そこで、そろそろ自分を戒めることも考えていこうと思いました。
考えてみれば、ぼくは正式なお坊さんにちゃんと坐禅を習ったことがなく、直接話を聞いたのはせいぜいヨガ教室やチベット密教の講演会で、軽く話題に触れた程度です。
あとは本で勉強していきました。
仏教や禅というのは、独学はよくないのだそうです。
仏教では独覚といって禁忌されていますし、禅では野狐禅といって警告されています。
そういう伝統的な禁止行為を、最近の思想にもとづいて「教団の技術専有行為だ」などとうがったことを考えることじたい、危険かもしれないですね。
ヨガも独学で学ぶとたいへん危険であると言われています。
禅の禅病のようなことで、ヨガにもクンダリーニ症候群というのがあるらしく、これもいったん患うとなかなか治らず非常に危険なんだそうです。
武道でさえ、独学だとめちゃくちゃになっていきます。
ダメだといわれていることには、きっとちゃんとした理由があるのだと思います。
ぼくは凝り性のところがあって、また一回やりだすと長期間続けてしまう癖があります。
なので「野狐禅」にならないよう、注意していこうと思います。
いわゆる戒律ではなくて、「きちんと師匠に習うまでの心構え」ということころですね。
・自分がやっている坐禅は禅でも瞑想でもなく、ただの「黙想」と心がける。
・悟りたいとか、神秘体験をしてみたいとか、無の境地に入りたい、三昧を経験したいなどとは絶対に考えない。目的はあくまで興奮したこころや神経を鎮めることで、よりよい睡眠を得るためである。
・坐禅のまえに人格の陶冶をこころがける。またこれも禅の思想や仏教思想によらず、一般常識的な倫理や学習によってのみ行う。
・日頃の仕事や役目をきちんと行う。坐禅を優先するがために日常行為がおろそかになるぐらいなら、坐禅はきっぱりやめる。
・無理な坐法は行わず、痛みや違和感があったときは即刻中止する。
・気持ち良いと思えなくなってきて、がんばらないといけない、継続しないといけないという義務感が生じたときは、未練なくやめる。
・禅や瞑想に関するいろいろな意見も肯定する。「この方法が正しいのだ」「あの方式は間違っている」などとは絶対に考えない。もしそう考えてしまった場合は、自分こそが間違った坐禅をしている。
・いくら気持ちよくても、1回15分以上、1日に2回以上は行わない。
・瞑想よりも姿勢の維持に集中し、ただしい姿勢が取れない場合は坐禅じたいをしない。
・風邪などあきらかな体調不良がある場合は行わない。
・飲酒して酔った状態や、満腹の状態では絶対に坐禅をしない。
・掃除をきちんと行い、清潔、整理整頓された空間で行う。掃除をしていない日は絶対に坐禅をしない。
「わたしは完全にど素人である」ということを、すくなくとも正式なお坊さんに習うまでは、イヤというほどココロに叩き込んでおこうと思うのです。
実際に永平寺で接心をしてきました、とかいうならまだしも、たかが本やネットで調べた程度の浅はかな知識と、自宅でちょろっと行っている程度の経験程度で「自我」など持たないようにしようと思います。
いまはまだ坐禅会などには参加できないけど、具合が良くなったらいずれは参加するつもりです。
だから、いまぼくがしている坐禅はあくまで「見様見真似」なのであって、実際の坐禅会などに参加するまでのなんちゃって自習に過ぎないと、きっちり自覚しておこうと思います。
気分や神経が落ち着いて、こころがやすらぐ。
現時点でぼくが得られる経験は、ここまで。
それ以上は絶対に求めないようにしようと思います。
ヨブ記38章11節ですね。
「ここまで来るのは良いが、これ以上は先へ進むな。」