イヤなものは、イヤなのっ。

坐禅をするようになってから、いろいろ気がつくことがあります。

おそらくは、自分を客観的に見るクセのようなものがついてきたのかもしれません。

 

まず第一には、ぼくは自律神経がおかしいおかしいと騒いでいたけれども、それは多分に「仕事中の姿勢がわるい」ことが原因だったようです。

背中が丸くなって、肩を前に巻き込むような格好で仕事を何時間もしていたせいで肺活量が極端に低下して、息苦しくなったりめまいがしたり、イライラしたりしていたのだと思います。

姿勢をきちんとまっすぐにすれば、かなり症状はマシになるのでした。

 

次に、「なぜ、姿勢がわるくなってしまうのか」

これについては、いろんな原因があります。

筋力の低下、癖、骨盤のゆがみ、首の位置の異常、痩せたことでいままで支えていた脂肪が消えて支えを失った、などなど。

しかし、最大の原因は、ここではないと思うのです。

いま自分の姿勢が悪くなっていることに気がついていない

ということが、いちばんの原因だと思うのですよね。

 

もちろん鏡を見たりすれば、わかるのです。

でも仕事や趣味などに没頭したりしていると、気が付かない。

これはつまり自分自身に対する客観性を喪失してしまっているということにほかなりません。

姿勢の悪化によって息苦しくなっているのにそれに気が付かないものだから、神経がわるい、ホルモンがわるい、遺伝だなどと、なんでもかんでも自分を病気にしてしまう。

「対象」ばっかりに意識が飛んでしまっているからだ。

しなければならないことを、できるだけ早く。

そんな「先のこと」ばっかり考えているから、顔面が前に突き出していって、アゴが上がって、ストレートネックになって、前傾し、背中が曲がっていく。

 

自分が、見えていない。

たったいま、じぶんがしている行動や心の状態に、注意が向いていない。

このことは姿勢の悪化だけではなくて、ストレスにも関係してくるかもしれないです。

 

ぼくは、じぶんの仕事は「好き」だと思っています。

これは確かにそうなのですが、その時その時に感じていることをすなおに客観的に見れば、「好きではないないときもある」のですよね。あたりまえですけど。

「わたしは、わたしの仕事が好きである」という「定義」に振り回されて、「じっさいに今、どう感じているか」ということが、おざなりになってしまっていることが多いのです。

客観的に、じぶんがいまどう感じているか、ということを観察すると、本来好きな仕事であっても、時にははやり「イヤだ」と強く思っていることもあるのでした。

 

姿勢と同じで、これにも気が付かないことが多いのです。

いま「イヤだ」と感じていることについて、とても鈍くなってしまっている。

「ねばならぬ」を優先する生活を続けてしまったせいで、「いまわたしは、どう感じているか」を見なくなってしまったのです。

 

ぼくはいつしか、主観的な世界に没入するようになってしまった。

だからパニック障害なんていう病気にもなったんだと思います。

 

ほとんどのこころの病は「主観への没頭」が強すぎることによって発生するような気がします。

定義であったり、条件であったり、経験であったり、知識であったり、そのような後付けのパーツに埋もれてしまって、「いま感じていること」が見えなくなってしまう。

イヤなものをイヤだといえない、ということならまだしも、そのうち「イヤなのに、じぶんがイヤだと感じていることにさえ気が付かない」という、決定的に主観的な世界に転落してしまう。

そうなってしまうと、もう「なんにもわからなくなってしまう」のですよね。

理屈っぽいことは得意なくせに、ごく単純なことが、わからなくなる。

ものごとをややこしく、複雑に考えるようになって、「考える」「調べる」ことでさまざまなことを改善したり、乗り越えようとしたりしてしまう。

無理だ。

原因が見えてないのに、りくつばっかり積み立てていったって、ぜんぶ的外れに決まってるんだよな。

解決するわけがねーじゃん。

 

ぼくは、いまは、「仕事がイヤ」。

なぜそうなのか、とか、どうすればいいのか、っていうのはさておき、とにかくいまは、仕事したくない。

この「とてもだいじなこと」に、まずは気がついておく必要がありますね。

 

さて、ではなぜ、いまは仕事がイヤなのか。

これはもう、ものすごく単純なのですよ。

首と背中が疲れて、限界にきている。

仕事そのものとか、お客さんがどうのこうのとか、関係ないのです。

単純に、わるい姿勢で仕事を継続してしまったがゆえに、首と背中を痛めています。

机に向かうと、痛みや苦しさが出るから、いまは「イヤ」なのです。

 

それにあと、とてもだいじなのが、

毎日毎日「すべきこと」を優先して「したいこと」を抑圧してばかりいる。

だからこころが「ヘルプミー!」と叫んでいます。

 

それがわかれば、対処はわりと簡単です。

「いまは、やすもう」。

それでいいのだ。

なにもとつぜんブチギレて「仕事やめじゃー! も、ぜんぶやめじゃー!」的に発作を起こさなくていいんですよね。

我慢に我慢をつみかさね、最後の最後にバクハツするなんて、アホンダラのすることです。

 

いまは、いやだから、すこしやすもう。

すこし待って、やる気が戻ってきたら、やろう。

 

この「ものすごーくあたりまえのこと」を、自称「まじめ」くんは、苦手なのです。

ほんとは、まじめ、じゃないんですけどね。

正確には、アホンダラなんですわ。愚鈍。

「ねばならぬ」などの、後付の条件だけに目がいって「わたしはいま、どう感じているか」を、ちゃんと見てないし、見ようともしてないんだよな。

そのくせ「わたしはビンカンで困る」とか言っちゃうの。

ぜんぜん、ビンカンじゃねえよなあ。

「あとづけのもの」「そとがわのもの」にはビンカンなのかもしれないけど、「わたしがいま、感じていること」には、超絶ドンカンなんだ。ニブすぎる。なんにも見てねえ。

感じていることと、思っていることを混同し、思っていることを優先するから「思い込み」が強くなる。

思い込みが強いのはまさしく「主観が強すぎる」ということにほかなりませんね。

 

イヤだ、という感情は、恒久無変のものではないんですよね。

ひとのこころなんか、四六時中動いてる。

だからイヤだという気持ちが変化して「イヤじゃない」になるまで待つことだって、りっぱなソリューションですよね。

「いますぐに、このイヤだという気持ちをコントロールせねばならない!」

そんなことをずっとずっと考えていると、そのうちじぶんが見えなくなって、とうとう見失ってしまう。

それが「病気」かもしれないですね。

 

戻ってこい!

じぶんをコントロールしたければ、じぶんが「ここ」にいないと、どうしようもないんですよね。

ボールがなければ、サッカーはできん。

 

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