禅、というと、まず真っ先に「坐禅」が思い浮かびます。
しかし聞くところによると、禅寺では「一に読経、二に掃除、三に坐禅」ともいわれるようで、シンボルたる座禅の地位は思ったよりも低いそうです。
まあ実際には「行住坐臥すべて修行」だそうだから、どれがいちばん大事なのか、というような幼稚な話ではないのでしょうけれどもね。
とはえいえ、読経というのはかなり大事であるとされているそうです。
ぼくはさいきん坐禅をするようになって思うようになったことがあります。
「ものごとは、ぜんぶひっくるめて、それである」
禅も座ってやる瞑想だけが禅じゃなくて、掃除も姿勢も心構えも、ぜんぶぜんぶひっくるめて禅なんだろうなあ、と。
マインドフルネスを否定するわけではないんですけど、なんとなくそういうふうに「一部分を抜き出して都合のいいように利用する」というのは、予想外のところで大失態を生むのではないか、という気がしてきています。
1000年も2000年も続けてきたことなのに、たかだかここ最近の「科学的」というイデオロギーに立脚して、禅を「ぶつ切り」にして抜き出すというのは、なんだか危険な香りがします。
科学は確かに進歩したけど、人間そのものはそんなに賢くもなってないと思うんですよね。
だから「いらんこと」はせんほうがいいんじゃないか、っていう。
さてそれよりもちょっと驚いたのが、あの般若心経です。
あのお経は息継ぎ2回で全部読み切れるように計算されている、っていう話があるんですよね。
https://www.asagei.com/excerpt/25869
さっそく、読んでみたんですよ。
そしたら、なんということでしょう!
ぼくのばあいは、息継ぎを5回ぐらいしないと読めません!
若い頃柔道をしていたこともあって、肺活量には自信があったんですよね。
とんでもない!
般若心経を息継ぎ2回だけで読み切るとか、ぜってえに無理になってました。
つまりそれだけ、肺活量が減っているし、呼吸力も弱くなっているということです。
「禅は、分割してはならない」
最近感じるこの原則にのっとって、読経もしよう、と思いました。
坐禅をしていると、呼吸が深くないと長くできないな、とは感じるのです。
やり始めのころは、姿勢をビシっとしているだけでも息が苦しくなったものです。
ふだん姿勢がわるいから、まっすぐな姿勢だと肺活量が逆に減ってしまうようなのですね。
しかし2週間も続けると、姿勢をまっすぐにした状態でも、全然苦しくはなくなりました。
しかし長年の癖ゆえに、どうしても「下腹にイキが落ちにくい」というのを感じます。
もっともっと、おなかで呼吸ができるはずなのに。
読経、いいかもしれない、と思ったんですよね。
禅で「一に読経」というのは、当然信仰心や思想哲学の醸成ということもあるのでしょうけど、ひそかに「呼吸力の鍛錬」という側面もあるんじゃないでしょうか。
般若心経を2回の息継ぎだけで読めるというのは、まあまあかなりの肺活量だと思います。
それができるのなら、坐禅ももっと有効になる気がします。
般若心経を、ただ読むのではない。
「息継ぎ2回で読み切る」ことを目標にやってみても、良いかもしれないですね。
肺活量は、多いに越したことはないです。
とくにぼくのようなデスクワーク主体の生活だと、どうしても肺活量が減っていってしまいます。
呼吸をしていても、吐ききれずに残ってしまう空気を「機能的残気量」といって、これは加齢とともに増えていく傾向があるようです。
つまり機能的残気量が多いということは、呼吸力が弱くなっている、ということです。
呼吸力が弱いといいうことは、生命力が弱いということでもある。
ただいたずらに、見よう見まねでヨガの呼吸法をブウブウとやるよりも、読経のほうが「かんたんに・現実的に」深い呼吸ができるかもしれないです。
息を、徹底的に吐ききる。
お経を一息で読み切るというのはものすごく合理的なトレーニングかもしれないな、と思いました。
肺や心臓に強い負荷を与えずに、強い呼吸力を養成していく。
ながいながい歴史のなかで、そんな賢い方法論が編み出されていったのかもしれませんね。
りくつでいけば、お経でなくても、好きな流行歌とかでもいいのかもしれませんけどね。
でもなんだろう、「分割するな」の原則からすると、素人考えでそういう変則応用を勝手にブチかますのは、なんかいやな予感しかしない。
たかだか数十年生きて勉強してきたことが、数千年の嗣法継承に打ち勝てるだろうか。
「それ専門」でずっとやってきているひとに、付け焼き刃のアイデアが通用するだろうか。
このさい、ややこしいことを考えずに、数千年の歴史を背負った専門家が「それをしろ」っていうのなら「はいっ! 了解しました!」で、いいんじゃないかな。
せっかく、そこにあるのだし。