だれかを笑わせたら、なんだかじぶんも、楽しくなる。
だれかを怒らせたら、なんだかじぶんも、腹たってくる。
だれかを褒めてあげたら、なんだかじぶんも、うれしくなる。
だれかをけなしたら、なんだかじぶんも、こころがすさむ。
そんなことがあるのなら、「不安」もおなじなんじゃないかな、と思いました。
パニック障害とか不安障害とかがあると、「安心」を希求してやまない、というのがあります。
だから、どうやったら「わたしが安心できるか」ばかりを考えてしまいがちです。
「私と人」を、分けすぎなんじゃないかな、と思ったのです。
ものごとは、じつは分割されているようで、じつは同体なのかも。
つながっている、というよりは、「おなじ」「ひとつ」なのではないか。
原則「おなじで、ひとつ」なのだけれど、違う部分がたしかにある。
その違う部分だけにフォーカスするから、「私と人は、ちがう」と認識してしまうのではないか。
なんていうことを思ったりすると、人に対して笑顔を向けると、それがじぶんにも返ってくるというのも、俄然なっとくがいきます。
返ってくる、のではないのですよね。
私と人は、本質的には「ひとつ」なのだから、人に対して行ったことは、そのままじぶんに行ったのと同じなのかもしれないです。
ぼくには、不安が多いです。
なぜか。
神経が弱いから? 呼吸が浅いから? 栄養が足りない? 性格の問題? 疲れているから?
いろいろあるけれど、あんがい「人を不安にさせている」っていうのも、あるんじゃないかな、と思いました。
ああ、仕事がたいへんだ、いそがしい。
きょうは調子がわるい、気分がわるい。
体調がおもわしくない、メンタルがおかしい。
つらい、たいへんだ、めんどくさい、いやだ、こわい。
そんなことを、無意識に周りに言っていたりするんじゃないか。
このブログだって、そうです。
じぶんの体調について、良くなっただの、治らないだの、ずっと書いてる。
そういうのを読むと、ひとは不安になるものです。
だれかを不安にさせているから、ぼくも不安になっているところも、あるんじゃないかなあ。
健康法にこだわるとよくない、というのは、じつはこのことなのかもしれないですね。
健康法を四の五の語るということは、不安があるからです。
そして、そんな話を聞いた人も、不安になります。
「わたしも、健康に気を使ったほうがいいのかも・・・」
って、思わせる。
まあ、それじたいは悪いことではないですが、ポイントは「不安を人に与えている」ということですね。
じぶんが健康法に凝り、それを人に伝えると、ひとに不安を与えていることにもなる。
そういうの、やめよう。
安心したいなら、ひとのことも、安心させてあげなくちゃいけない。
ひとはどうすると、安心するか。
それは単純に、笑顔だったり、励ましだったり、「だいじょうぶだよ」のひこととだったりする。
なにも、むずかしいことはない。
「おまえなら、きっと大丈夫だ。」
そのひとことが、笑顔でいえるかどうか。
あんがい、そんなしょうもないことで、ぼくは不安を持ち続けているのかもしれないな。
心配性のぼくなのに、あんがい、へこたれなかったり、落ち込んでもすぐに復活するのは、ひとのわるぐちを言わないからかもしれません。
ぼくは基本、ひとのことを、ほめます。
そうしたら、じぶんも気持ちがいいから。
それに、ひとのことをけなしたり、わるぐちを言ったりしても、肝心なところはなにひとつ解決しませんからね。
それを知っているのに、ぼくはあんがい、「弱音」をよく吐いているのかもしれないです。
朝起きて、家族と最初に顔を合わせたときに、
「きょうはなんか、調子いいかも」
「きょうはどうも、だめだ」
そんなことを、意外と言ってる。
そうじゃないだろ。
朝起きて、おはよう、のつぎに家族に言うことは、
「あー、腹へった」
で、いいんじゃないの。
いちいち正確に、調子がいいだのわるいだの、報告しなくていいぜ。
「おなかすいたー!」って起きてくる家族には、なんか安心するじゃんねー。
どうしたら安心できるか、よりも、どうしたら安心させてあげられるか、を考えてみよう。
人間なんて、あんがいそんなことで、安心できるかもしれないんですよね。
心配性だからこそ、安心のさせかたも、よく知っているはずだ。
なんのために、心配性を何年もやっとるねんな。
それは、だれかを安心させてあげられる技術を、きちんと身につけるためなのかもしれないですね。