ぼくには「師匠」といえるようなひとがいます。
年齢はほぼ一緒で、友達でもあるんだけれども、Webデザインに関する師匠です。
基本的なことはすべて、彼から習いました。
ふと、思い出したのです。
師匠と一緒に仕事をしていたころ、彼から思いもかけぬ告白を受けました。
「おれ、貧乏ゆすりが止まらない病気なんだよな」
神経症だということで、薬を飲んでいたそうです。
師匠はひじょうに男らしい男で、人間が大きいと言うか、あまり細かいことをぐずぐず言わないし、鷹揚でのんびりしたイメージがありました。
神経質とは程遠いイメージ。
話も面白いし、ノリもいいので、みんなから好かれる人間でした。
人望も厚く、彼の人柄を慕って入社を希望するひともいたぐらいです。
メンタルがとても強くて、なんども倒産しかけたのに、かならず不死鳥のように蘇ってきました。
もちろん悩みがなかったというわけではないのですが、すくなくともメンタルが弱い、という評価には合致しないと思います。
強い男だ。
しかしそんな師匠でも、一時期「貧乏ゆすりがとまらない」という、不可思議な病気になっていたのでした。
どういうわけかわからないのだが、とにかく断続的に貧乏ゆすりが出て、どうしたって止まらない。
しかたがないので「貧乏ゆすりをしながら歩いて病院に行った」のだそうです。
おそらくは、アカシジア、という病気だと思います。
神経症の一種ですね。
で、冷静になって見てみると、ぼくが感じているいろいろな不具合は、じつは師匠とほぼ同じなんじゃないかな、と思い当たったのです。
ぼくはとくに早朝から昼にかけて(これはぼくの仕事のコア・タイムでもあります)、ひじょうにイライラして、息苦しくなり、焦燥感ひどく、そわそわ、あたふたしてしまいます。
汗がいっぱい出て、そのくせ手足は冷えて、完全なる緊張状態になります。
なんにも緊張することなんか、ないのに。
ぼくはパニック障害という病気だから、これもその一環だろうと思っています。
また最近年齢からして男性更年期障害という可能性も捨てきれません。
いずれにせよ、この不具合はぼく独自のもの、というイメージがありました。
しかし以前、この異様な焦燥感も「貧乏ゆすり」をするとかなりマシになることを発見したのです。
ぼくは元来じぶんでいうのもなんですが、まあまあ落ち着いていると言われるタイプではあります。
家がわりと古い武士の家系で、先祖は武士と刀鍛冶と憲兵という、なんか「ザ・日本」みたいな血統でして、だから礼儀とかにも厳しいです。
そのおかげで基本的には上品で、礼儀正しい行動になっていったところがあります。
だからそもそも「貧乏ゆすりをする習慣」がなかったのです。
貧乏ゆすり、というものを、たぶん幼少のころからしたことがないのです。
できないわけではないのですが、そういう文化がなかった。
ふつう、人はイライラすると貧乏ゆすりをするのだそうです。
しかしぼくのばあいは、絶対にしない。
貧乏ゆすりがうっかり出てしまう、なんてことは一回も経験がありません。
「意図的に」しようと思ってしないと、できないのです。
そこで、思った。
じつは、パニック障害とか自律神経失調症とか神経症とか、いろいろあるけれども、じつは「根っこ」は一緒なんじゃないか。
根っこから、幹を経由して、出てきた「枝葉」がちがうだけなのではないか。
貧乏ゆすりをとくに禁止されず、すなおに育った師匠は、「貧乏ゆすりがとまらない」病気になった。
貧乏ゆすりという習慣を一切持っていないぼくは「パニック発作」という病気になった。
なんか、そんな気がするのです。
日がな一日パソコンに向かい、あまり動かず、わりとややこしいことをずっと考えている。
目や手、腕を酷使し、背中をまるめて肩がこるような作業をつづけ、呼吸の浅い時間がとても長い。
こんなことをしていると、だれだってイライラしてくるものです。
幸い性格的なところとか、嗜好とか、カラダの柔軟性とかいろいろあって、ふつうの人よりも「じっとしていることに強い」ところは、あるんだと思います。
しかしやっぱり、限界はある。
強いがゆえに無理をしてしまい、とうとう「どかーん!」となってしまうのかもしれません。
師匠の場合は、志向が「外向き」なのか、症状としては主に「貧乏ゆすりが、なぜか止まらない」でした。
そのかわり、いらいらするとか腹が立つとかいうのはとくに感じなかったそうです。
しかしぼくは、もしかすると志向が「内向き」なのかもしれません。
貧乏ゆすりという外的な症状は一切でないかわりに、いらいら、そわそわ、焦燥感といった、内的な「情動」のほうに症状が集約していく。
その情動のせいで、強い緊張感や、動悸やのぼせなど、自律神経失調症のような症状が出てくる……。
まああくまで、推測ですが。
どっちがいいか、わるいか、という話ではないですね。
ていうか、どっちもわるい。
肝心なのは、内向き外向きにかかわらず、行き着いた症状の根っこにある「原因」だと思います。
メンタルが強いか弱いかという話ではないのでしょう。
メンタルが強く見えるひとは、情動そのものには影響しなくても、純粋に無意識行動などに症状が出てしまう。
メンタルが弱く見えるひとは、無意識行動のようなことは起きない代わりに、ダイレクトに情動に出る。
まさに「出方」がちがうだけなのではないか。
ここに思い至って、俄然、ひらめいたのです。
メンタルを強くするという試みは、不毛かもしれない。
強い弱いの問題ではなく、強ければ強いなりに、ほかに影響が出るだけかもしれない。
だから、もしいまメンタルが弱いと自覚していてるならば、その部分はとくに触らなくて良いのだ、と思いました。
問題は、そこではないんだ。
メンタルを強くすることは難しいし、もし強くできたとしても、肝心の原因を変えない限りは、症状が変わるだけかもしれない。
神経症を患っていると、よく思ってしまうのですよね。
「原因はわたしのメンタルの弱さだ。これを強くできれば、解決できるはずなのだが…。」
いや、そうじゃないのかもしれません。
じぶんのメンタルが弱いことが原因なのではなくて、やっぱり原因は、症状を引き起こしている「なにか」である。
その「なにか」を解決、あるいは排除しないかぎり、いくら強大なメンタルを手に入れたところで、「またべつの病気」になるだけかもしれないです。
だから、目標は、メンタルを強くすることなんかじゃない。
必要なのは、原因を見極める目と、解決する知恵だ。
原因がわからない、と思っているのは、原因を見つける能力が低いから。
原因がない、わけじゃないんですよね。
原因を見つける能力が低いから、ヤケになって、めんどくさくなって「メンタルを強くすればいいんだ」なんていう、ジャンボリーな結論に至る。
無理だっつうの。
それができるのなら、みいんなそうなっとるわいや。
そんな難しいことを志すよりも、「観察眼を養う」ほうが、まだ現実的ですね。
ものごとには必ず、原因がある。
脚下照顧。
たいていのことは、じぶんの足元に、落ちているそうです。