恵まれすぎて、傲慢

ぼくはもう、十分に「足りている」のかもしれない。

 

そもそもの話として、日本じたいがとても恵まれているのかも。

このことはそういえば、大学時代にインドとネパール、香港などを1ヶ月ほどの長期旅行したときにも感じました。

 

まず、とても安全なのですよね。

拳銃を持ってウロついている人はほぼいないし、歩いているだけで強盗に合うということも、まずありません。犯罪者が全くいないわけではないけれど、その発生確率はものすごく少ないと思います。

死体がそのへんに転がっているなんて、まず考えられません。

毒虫などもものすごく少なくて、山登りなどにいっても、冗談抜きでヤバい生き物というのはとても少ないです。

そして、清潔です。

水道の水を飲んで赤痢になるということはまずないですし、どこかしこで生死に関わる伝染病が蔓延したりはしていません。

住んでいる人じたいが、そもそもだいたい、清潔です。

また、まじめです。

電車はほぼ間違いなく時刻通りに到着しますし、宅配便が途中で盗まれたり紛失したりすることも、ほぼ皆無です。約束は守るひとのほうが、圧倒的に多い。

 

インドにいったとき、この「すべて」が、なかったのです。

宿泊していたホテルは、チェックアウト翌日にテロで爆破されていましたし、べつのホテルではルームサービスのひとがぼくのTシャツを盗んでいきました。

怪しいクスリを売りつけようとするひとにもけっこう出会いましたし、平気でウソをつくひともたくさんいて、旅行者だと知ったら平気で通常の何倍もの料金を請求してきます。

歩き疲れてなんとなく道端のゴザのようなものに座ったら、それはヒトの死体でした。

店で売られているペットボトルのミネラルウォーターを飲んで、ぼくは赤痢にかかりました。

電車が時刻通りに来たと思ったら、それは「きのうの」電車だった。

バスにのって、たまたま谷間を覗き込んだら、谷底には何台ものバスの残骸が落ちていました。

赤ちゃんがどろまみれで、地面に放置されたままというのも何度もみかけました。

ある日本人が高価な腕時計をしていたところ、強盗に「腕を切り落とされて」その時計を盗まれた、というニュースも現地で聞きました。

人々は女性も含めて、そのへんでションベンや大便をしていましたし、そもそも歩道がウシのフンだらけでした。

信じられない。

はじめて訪れた時の正直な感想は、これでした。

 

日本に帰ってきた時、ぼくは「心底」ほっとしました。

世界一、油断できる国。

それが日本だったのです。

 

もちろん、日本のすべてが良いわけではなく、それなりに問題はたくさんあると思います。

しかしぼくたちが問題だと思っていることの多くは、極端なことをいえば「どっちでもいいこと」でもあることが多いです。

日本人は横並び意識が強く神経質で、空気を読め読めとうるさい……などという愚痴をたまに聞くけれど、そんなもん無視しといたらしまいなんですよね

だれも殺しには来ん。

社畜だの、働き方がどうのこうのいうけれど、それだって「いやです」といって断れば完了です。

会社をクビになっても死にはしないし、殺されもしない。

ぼくたちが「困る」といっているのは、相当かなり高いレベルのことを言ってることが多いです。

生きていけないのではなく、平均的な生き方ができない、というような。

「日本人は横並び意識が強すぎる」と文句をいいながら、そのじつ、本人が「よそさまの生活」に合わせようとがんばっている。

なにやっとるねんな。そんなんやったら、はじめから文句いうなや。

 

ぼくは、じぶんがパニック障害だったり広場恐怖症であったりすることで、痛く悩んだ時期もありました。

しかし考えてみれば、いや、考えなくても、こんな病気、病気とはいえないです。

だって、死なないんだもの。

思考が狂ってしまうわけでもないし、どこかの関節が動かないわけでもない。

外に出られなかったとしても、いまはネット通販があり、その通販も、ほぼ絶対に確実に、指定日時に到着する。

インターネットも電話もあり、人との連絡に問題はない。

なんの問題もない。

なのにぼくは「外出恐怖を克服せねば! 治さねば!」と躍起になっていたし、そう思うことで、強いストレスも感じていたのでした。

治さなくても、生きていける。

ゼイタクさえしなければ、食っていける。

ぼくは「ぜいたくがしたい」から、一生懸命に治そうとして、苦しんでいたのでしょうか。

 

風が当たれば回転する風見鶏のように、問題がじぶんに当たるのならば、回転すればいいじゃないか。

外出ができないのなら、外出しないい条件で、できることをすればいい。

脚の悪いひとも、腕がないひとも、目が見えないひとも、みんな同じようにやってるんだから。

 

ていうか、パニック障害や外出恐怖症なんて、いわゆる四肢の欠損などの障害ではないから、何かの拍子に治ってしまう可能性を大いに秘めています。

脚がないのに、脚を生やそうと努力するのとは、わけがちがう。

なのに、なにを、思い煩う必要があるか。

そもそも顔も性格も趣味も人生もちがうのに、「ひととちがう」ことで、なにを悩むのか。

 

恵まれすぎなのかな、と思ったりもしました。

ほんとうの、ほんとうに、もうまったくのっぴきならない、断崖絶壁。

その「ほんとうの終点」まで、まだまだ何十キロもあるというのに「もうだめだ」とか思い悩む。

恵まれていると、その状態を基準として相対的に終点を計算するから、しょうがありませんね。

 

ぼくたちが「それは、まずい」と思うことの大半は、本来どうだっていいことかもしれません。

大学に落ちたぐらいで悲観して死ぬ学生もいるらしいけど、ぼくはそれを、笑えないです。

似たようなことを、考えているんですよね。

仕事を失えばもうこの世の終わり、なんて思ったりすることもあるけれど、んなアホなことあるかい。

ぼくの仕事が増えようがなくなろうが、この世は終わりません。

ぼくも終わりません。

パニック障害や外出恐怖になったときは「もう終わった」とさえ思いましたが、うそつけ。

どんな病気をしようが、ぼくは終わりません。

生きている限りは、終わることはないのですよね。あたりまえですけど。

 

恵まれ過ぎなんだよな。

恵まれることじたいは、とてもいいことだけど、恵まれすぎて傲慢になることは、良くないですね。

どうでもいいことで嘆き悲しむというのは、神経症と変わりません。

妄想だ、という点において。

 

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